西郷頼母の追放

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「西郷頼母の追放-没落した会津藩の改革」編です。

このページは「会津藩の山川大蔵の彼岸獅子の入城のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■会津藩の立て直し
籠城2日目から3日目にかけて、会津藩が国境に展開していた主力部隊が続々と帰城してきた。若松城に籠城する人数は、戦闘員と非戦闘員とを合わせて5000人を超えたという。

山川大蔵の彼岸獅子の入城により、会津藩の士気は高まっていたが、新政府軍に包囲された若松城内は、籠城派と降伏派とに別れて喧々囂々の議論となっていた。

極楽寺の裏切りにより、若松城の弱点となる小田山を新政府軍に占領されたうえ、会津藩は籠城の準備をしていなかったため、若松城には籠城戦に備えるだけの武器や兵糧が無かった。

武器商人から購入したゲベール銃は不良品が多く、会津藩は火縄銃まで持ち出す始末であった。ゲベール銃は不良品を売りつけられたという説もある。

■没落していた会津藩の首脳陣
会津藩の家老は世襲制で、会津の名門9家(会津9家)の出身者しか家老になることが出来ず、身分意識が強いうえ、保守的だった。このため、会津藩の首脳陣は没落していた。

会津藩は身分制度が強く、優秀でも身分が低ければ出世することができなかった。秀才と言われた秋月悌次郎が左遷されたのも、下級藩士だったからだ。

また、改革を主張しようものなら、家老の怒りを買い、処罰されるのは必至だった。西洋銃の導入を訴えた山本覚馬も1年間の禁足を食らったのも、会津藩の家老の反感を買ったからだった。

会津藩は、西日本諸藩の事情に通じていた秋月悌次郎が左遷し、薩摩藩・長州藩と対等に話が出来る神保修理を無実の罪で自害に追いやった。新政府軍とのパイプ役を切り捨てて、会津藩を戦争へ追いやったのは、会津藩自身であった。

■西郷頼母の追放
会津藩が恭順派と抗戦派に別れるなか、家老の西郷頼母(さいごう・たのも)は、藩主・松平容保に切腹を迫り、全員玉砕を主張した。

非戦恭順派だった西郷頼母が、藩主・松平容保の切腹および会津藩の玉砕を主張した理由は分からない。(西郷頼母一族の自刃が原因しているのだろうか。西郷頼母一族の自刃については「実話-西郷頼母一族の自刃」をご覧ください。)

西郷頼母は過去に、京都守護職の就任に反対し続けて、藩主・松平容保の怒りを買い、家老を解任されたていた。

その後、家老に復帰した西郷頼母は、「白河口の戦い」で大軍を率いて白河城の守備にあたったが、新政府軍の参謀・伊地知正治の手勢700人に惨敗し、白河城を奪われるという大失態を犯した。

(実戦経験の無い西郷頼母に、東北諸藩の運命がかかっている白河城の守備を任せたのは、身分が理由との説もある。)

その西郷頼母が、この場に及んで藩主・松平容保に切腹を迫ったため、藩主・松平容保ほか会津藩士が激怒した。

このため、身の危険を感じた西郷頼母は、城の外にいる部隊への伝令を口実に、長男の西郷吉十郎を連れて若松城を抜け出して逃げた。

一説によると、西郷頼母に刺客が送られたが、刺客はあえて西郷頼母を追わなかったとされている。ただし、刺客説の真相は分からない。

西郷頼母はその後、旧幕府軍の榎本武揚と合流し、北海道の函館へ渡った。そして、旧幕府軍が降伏すると、西郷頼母は館林藩に幽閉された。

■会津藩の首脳陣の一新
西郷頼母を追放してもなお、会津藩は恭順派と抗戦派に別れて、喧々囂々の議論を続けていた。

しかし、藩主・松平容保は籠城を決め、山川大蔵を軍事総督に抜擢し、梶原平馬を政務総督に抜擢する英断を下した。

こうして、20歳代の2人が、会津藩の軍事・政務の責任者に就き、旧態依然としていた会津藩に新しい風が吹いた。

さらに、藩主・松平容保は、原田対馬に西出丸の守備に就け、海老名季昌を北出丸の守備を任せるなどして、若松城の防衛の責任者に若手を起用。佐川官兵衛を総督に任命し、首脳陣を一新した。

そして、秋月悌次郎を軍事奉行添役に抜擢するなどして、優秀な若手を次々と起用した。

主・松平容保は、保守的な旧体質を壊し、新しい会津藩を誕生させた。本当の意味での会津藩の改革が行われたのは、この時である。

会津藩は新体制の元、一致団結し、士気は益々高まった。いつの世も時代を作るのは若い力なのだ。

会津藩の頼みの綱は、奥羽越列藩同盟の援軍と冬の到来だった。雪が降れば、新政府軍は移動も食料の搬送も困難となる。冬まで持ちこたえれば、会津藩にも勝機が出てくる。

実話-佐川官兵衛の奇襲攻撃のあらすじとネタバレ」へ続く。

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