実話-佐川官兵衛の奇襲攻撃
山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「実話-佐川官兵衛の奇襲攻撃のあらすじとネタバレ」編です。
このページは「西郷頼母を追放するあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■若松城の南方を確保せよ
会津藩は国境警備にあたっていた正規軍が続々と戻り、体勢を立て直したが、会津藩は籠城の準備をしていなかったため、圧倒的に食料が不足していた。
会津藩は食料補給路を確保しなければ籠城戦を戦い抜くことは出来ないため、手薄となっている若松城の南方を確保して、食料を補給することにした。
そこで、会津藩は若松城の南方に新政府軍を排除するため、新政府軍に奇襲攻撃をかけることにした。
■鬼の佐川官兵衛(さがわ・かんべえ)
会津藩の家老・佐川官兵衛は、藩主・松平容保が京都守護職をつとめていたとき、「別撰隊(べつせんたい)」「諸生組」の隊長を務めて京都の警備にあたり、薩摩や長州から「鬼官兵衛」「鬼佐川」と恐れられた猛者だった。
佐川官兵衛は会津藩を代表する猛将で、新政府軍の中には、佐川官兵衛の名前を聞いただけで逃げ出す者も居るほどだった。
ただ、「鬼官兵衛」「鬼佐川」と恐れられた佐川官兵衛だが、酒にまつわるミスも多かった。佐川官兵衛は若松城籠城戦でも酒を飲んで失敗をしている。
■佐川官兵衛の奇襲攻撃
会津藩主・松平容保は佐川官兵衛を総督に任命した。そして、佐川官兵衛に宝刀を与え、奇襲攻撃を命じた。佐川官兵衛に与えた宝刀は、名刀「正宗」とされている。
奇襲攻撃は、新政府軍が寝込んでいる早朝に、精鋭部隊を率いて突撃する作戦であったが、佐川官兵衛が寝過ごしたため、突撃が遅くなり、散々な結果に終わった(長命寺の戦い)。
敗戦の原因は、佐川官兵衛は昨夜、名刀「正宗」を賜ったことに喜び、夜遅くまで酒を飲み、寝過ごしてしまったからだった。
1868年10月13日(慶応4年8月28日=籠城6日目)夜、名刀「正宗」を賜った佐川官兵衛は、会津藩主・松平容保に「西軍を打ち払うことを誓う。万が一失敗したときは、再び入城することはない」と宣言して、宴席で別れの酒を酌み交わした。
佐川官兵衛は明朝に奇襲攻撃を行う予定だったが、名刀「正宗」を賜ったことに舞い上がったのか、大量の酒を飲み、宴席で寝込んでしまった。
1868年10月14日(慶応4年8月29日=籠城7日目)、新政府軍に突撃する時刻が迫るが、兵士がいくら起こしても、佐川官兵衛は目覚めず、とうとう夜明けを迎えた。
ようやく起きた佐川官兵衛は精鋭部隊を率いて新政府軍に突撃したが、新政府軍は起きており、奇襲攻撃は大失敗に終わった(長命寺の戦い)。
会津藩は「長命寺の戦い」で多くの優秀な指揮官を失い、窮地に陥る。佐川官兵衛は宣言通り、若松城へ入城することなく、以降は若松城の外を転戦した。
一方、新政府軍には援軍が続々と到着しており、「長命寺の戦い」での勝利を切っ掛けに、本格的に若松城を攻め始めた。
1868年10月20日(慶応4年9月5日=籠城13日目)、城外で転戦する佐川官兵衛は、奇襲攻撃の失敗を取り戻すべく、材木町で新政府軍を攻撃し、少数の兵で大軍を撃破する大勝利を収めた(「材木町の戦い」または「住吉河原の戦い」)。
会津藩は「材木町の戦い」で大勝利により、若松城の南方に食料補給路を確保することができたのである。
ただ、この時はまだ、「材木町の戦い」が若松城籠城戦での唯一の勝利とりなることは知るよしも無い。
実話「山本八重の桜」の会津編「実話-娘子隊(婦女隊)の中野竹子と山本八重のあらすじとネタバレ」へ続く。