実話-降伏した山本八重-会賊から会津降人

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜-会津編(戊辰戦争速記録)」のあらすじとネタバレシリーズ「実話-降伏した山本八重-川崎尚之助の失踪」編です。

このページは「実話-若松城の落城(開城)-会津藩の降伏のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■実話-降伏した山本八重
11868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)午後、調印式が終わると、城の受け渡しが行われた。籠城していた山本八重らは会津若松城の三の丸へと移された。

同日夕方、新政府軍が人員を調べるため、山本八重ら籠城者を桜馬場に集めたが、日が暮れて中止となり、山本八重ら籠城者は三の丸へと戻された。

桜馬場へ集まる時には通路に会津葵(会津藩・松平家の家紋)の提灯がかかっていたが、三の丸へ帰る時には揚羽蝶(あげはちょう)の提灯に変わっていた。

新島八重は揚羽蝶の提灯を観て、「汚らわしい奸賊どもの提灯が…無念」と怒りを噛み締めた。奸賊(かんぞく)とは「卑怯な悪人」という意味である。

■史実-山本八重の詩
11868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)深夜12時、山本八重が空を見上げると、見事な月が輝いていた。

山本八重は三の丸を出ると、「明日の夜は、何国(いづこ)の誰か、ながむらん、なれし御城に、残す月かげ」という詩を詠み、若松城三の丸の近くにある雑物蔵の壁に詩を刻んだ。

山本八重は「カンザシ」を使って雑物蔵の壁に詩を刻んでいる。この「カンザシ」は髪に差す「簪(かんざし)」とされているが、簪ではなく、鉄砲の部品だったという説もある。

なお、山本八重が雑物蔵の壁に刻んだ詩は、資料により若干の違いがあり、4パターンが記録されている。どれが正しいのか分からない。

■実話-若松城の明け渡し
1868年11月7日(慶応4年9月23日=籠城31日目)、新政府軍(長州藩)の山県小太郎が入城する。降伏した松平容保は、新政府軍の山県小太郎に若松城を明け渡す。

開城時に若松城に居た人数(籠城者)は5239人だった。若松城には、大砲51門・小銃2845丁・弾薬22000発・槍1320筋・長刀81振のほか多額の借金が残っていた。会津藩の死傷者の数は計2977人だった。

その日の朝、新政府軍は籠城して腹を空かした会津藩士のために、握り飯を配った。

新政府軍の配った握り飯は、白米でピカピカしていたため、若松城内では「新政府軍が配る飯には毒が入っている」という噂が流れた。

山本八重は久しぶりに見た白米を気味悪がりながらも、新政府軍が配ってくれたおにぎりを食べた。もちろん、おにぎりに毒は入っていなかった。

また、若松城では「女は追放になり、男は全員、切腹を命じられる」などという噂が流れたが、新政府軍の処分は、「女子供および60歳以上の老人は罪に問わぬものとして放免とし、その他の者は猪苗代で謹慎」というものだった。

こうして、若松城の城内に居た会津藩士は猪苗代で謹慎し、城外に居た会津藩士は塩川村で謹慎することとなった。

■実話-山本三郎の正体は山本八重
山本八重は女性なので自由の身となるずだったが、亡き弟・山本三郎を名乗って、他の会津藩士と供に猪苗代へと向かった。

ただ、途中で女だと知られてしまい、「女だ、女が居るぞ」と叫ばれた。

山本八重は右へ左へと身を隠しながら、猪苗代へ向かうのだが、結局は女だと知られてしまい、追い返されてしまった。

■夫・川崎尚之助の失踪
一方、大砲隊を指揮していた夫・川崎尚之助は、他の会津藩士と同様に猪苗代へ行き謹慎した。

通説では「川崎尚之助は会津藩士では無かったため、若松城開城前に若松城を出た」とされていたが、川崎尚之助は会津藩士として猪苗代を経て東京で謹慎していた事が明になっている。

また、通説では「川崎尚之助は戊辰戦争の最終に山本八重と離婚した」とされているが、川崎尚之助が山本八重と離婚した事を示す資料は見つかっていない。

■会賊から会津降人
朝敵となった会津藩は「会賊」と呼ばれていたが、新政府軍に降伏して捕虜となった会津藩士は「会津降人」と呼ばれるようになる。

武士道を重んじる会津藩士にとって、「会賊」「会津降人」と呼ばれることは、非常に屈辱的だったという。

ただし、会津藩士は新政府軍(官軍)を「奸賊(かんぞく)」「官賊」「薩賊長奸」などと呼んでおり、お互い様のようだ。

実話「山本八重の桜」の会津編「萱野権兵衛の切腹のあらすじとネタバレ」へ続く。

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