萱野権兵衛の切腹

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜-会津編(戊辰戦争速記録)」のあらすじとネタバレシリーズ「萱野権兵衛の切腹」編です。

このページは「実話-降伏した山本八重-会賊から会津降人のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■萱野権兵衛の切腹
会津藩が新政府軍に降伏し、若松城を明け渡すと、新政府軍は会津藩主・松平容保の代わりとして、戦争責任者の首を求めた。

どういう事情で会津藩の家老・萱野権兵衛が切腹することになったのか、詳しい経緯は分からないが、萱野権兵衛は会津藩の戦争責任を一身に背負って、切腹することになる。

通説によると、会津藩の戦争責任者は田中土佐・神保内蔵助・萱野権兵衛の3人だったが、既に田中土佐・神保内蔵助は死んでいることから、萱野権兵衛が会津藩の責任者として切腹することになったとされている。

萱野権兵衛は降伏式で藩主・松平容保に寛大な処分を求める嘆願書を提出しており、藩主・松平容保の無実を訴え、戦争責任者として名乗り出たのだという。

会津藩の降伏後、萱野権兵衛は会津藩主・松平容保と供に江戸へ送られ、久留米藩の江戸藩邸で謹慎した。

その後、萱野権兵衛は1869年(明治2年)5月14日に切腹を命じられ、1869年5月18日に飯野藩邸で切腹することになる。

一刀流溝口派の達人の萱野権兵衛は、切腹が決まると、一刀流溝口派が絶えることを惜しんで、火箸を使って会津藩士の井深宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝えた。

また、萱野権兵衛は切腹する前に、会津藩主・松平容保や照姫から手紙を受けていた。

会津藩主・松平容保の手紙は「萱野権兵衛の忠義は忘れない」と書かれてあった。

照姫の手紙には、「松平容保・松平喜徳親子の身代わり、気の毒に思う」と書かれており、最後に「夢うつつ、思ひも分す、惜しむそよ、まこと、ある名は、世に残れとも」という詩が書かれていた。

会津藩の戦争責任を一身に負った萱野権兵衛は、「国家のために死ぬ事は覚悟しており、悲しむことでは無い。むしろ光栄である」と言い残して切腹したのであった。

伊藤おけいと桜井松之助の若松コロニー物語のあらすじとネタバレ」へ続く。

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