「荒城の月」のモデルは会津若松城(鶴ヶ城)
NHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる山本八重(新島八重)のあらすじで紹介する実話「山本八重の桜-戊辰戦争速記録」の番外編「『荒城の月』のモデルは会津若松城だった」です。
■会津若松城は「荒城の月」のモデル
滝廉太郎の作曲で有名な曲「荒城の月」は、全国数カ所に歌碑が存在するため、「荒城の月」のモデルには複数の説が存在する。
しかし、現在は「荒城の月」の歌詞に登場する荒城のモデルは会津若松城(別名「鶴ヶ城」)と判明している。
「荒城の月」を作詞した土井晩翠は、1898年(明治31年)に東京音楽学校の依頼により、「荒城の月」を作詞した。
土井晩翠は「荒城の月」のモデルを明かしていなかったが、1946年(昭和21年)に会津高等女学校で公演したさい、「荒城の月」のモデルが会津若松城(鶴ヶ城)であることを明かした。
土井晩翠は、高校時代に修学旅行で会津若松城を訪れており、会津若松城を連想して「荒城の月」を作詞したという。
このため、土井晩翠の公演後に急遽、会津若松城に「荒城の月」の歌碑が設置する計画が持ち上がり、1947年(昭和22年)6月5日に、作詞した土井晩翠夫婦を招いて、除幕式が行われた。
なお、会津若松城がモデルとなっているのは「荒城の月」の作詞部分であり、曲は滝廉太郎が作ったので、曲のモデルは分からない。
■山本八重と荒城の月
NHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる山本八重(後の新島八重)は、土井晩翠と同じように若松城で月を題材とした詩を詠んでいる。
会津藩が新政府軍(官軍)に降伏して津若松城が上洛した11868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)の夜、会津の夜空に煌煌と月が輝いていた。
山本八重はその月を見て、「明日の夜は、何国(いづこ)の誰か、ながむらん、なれし御城に、残す月かげ」という詩を詠み、若松城三の丸近くにある倉庫の白壁に詩を刻んだ。
「荒城の月」のモデルが会津若松城であることについて、山本八重がどのように思ったのか調べてみたとこが、山本八重は土井晩翠がモデルを明かす前の1932年(昭和7年)6月14日に死んでいるため、「荒城の月」のモデルについてのコメントは無かった。
実話「山本八重の桜」の関連情報は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
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