伊藤おけいと桜井松之助の若松コロニー物語

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜-会津編(戊辰戦争速記録)」のあらすじとネタバレシリーズ「伊藤おけいと桜井松之助の若松コロニー物語」編です。

このページは「萱野権兵衛の切腹のあらすとネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■ジョン・ヘンリー・スネルと伊藤おけい
朝敵となった会津藩は、新政府軍(官軍)の侵攻に備えて、武器商人のスネル兄弟から武器弾薬を購入した。

そして、スネル兄弟の兄ジョン・ヘンリー・スネルに「平松武兵衛」という和名を与え、会津藩の軍事顧問として重用していた。

軍事顧問となった平松武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)は、会津若松市材木町にある屋敷で住んでいた。

平松武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)は日本人女性と結婚し、子供を儲けており、平松武兵衛の屋敷では、近くに住む17歳の少女(町娘)「おけい(伊藤おけい)」が子守(使用人)として働いていた。

■若松コロニー(会津コロニー)
その後、会津藩が新政府軍に降伏して若松城が落城(開城)すると、平松武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)は藩主・松平容保に、ゴールドラッシュに沸くアメリカで新天地を開拓することを提案した。

藩主・松平容保はこれを許可すると、平松武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)は、自分の妻子と会津藩士とその家族数十人を連れて若松城を出た。

一説によると、移民団の人数は約40人とされているが、詳しい人数はわからない。

会津を出た平松武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)ら移民団は、神戸港で米国船「チャイナ号」に乗り、アメリカへと向かった。そのなかに、子守の少女「おけい」の姿もあった。

カルフォルニアでは1848年に金脈が見つかり、1849年には一攫千金を夢見た若者が続々とカルフォルニアに押し寄せ、ゴールドラッシュで賑わっていた。この時に集まった若者は「フォーティ・ナイナーズ」と呼ばれている。

会津藩が敗北した1868年も、カルフォルニアはゴールドラッシュで賑わっており、平松武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)はカルフォルニアで日本人村(若松コロニー)を作り、日本のお茶や絹を生産しようと考え、会津藩士とその家族を連れてアメリカへ旅立ったのだ。

平松武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)らは1869年(明治2年)5月20日にアメリカ・カルフォルニアに到着すると、計画通りにカルフォルニアのゴールド・ヒルで農地を買い取って日本人村「若松コロニー(Wakamatsu Tea and Silk Colony)」を作った。

当初は順調に進んで若松コロニーであったが、栽培に失敗して1年と少しで崩壊してしまった。若松コロニーが失敗した原因は、日照りとも疫病とも言われているが、詳しいことは分からない。

このため、平松武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)は「資金調達してくる」と言い残して若松コロニーを出た。しかし、平松武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)が再び若松コロニーに戻ることは無かった。

移住した会津藩士らは若松コロニーの崩壊後も若松コロニーで平松武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)を待っていたが、やがて若松コロニーを出て行った。

若松コロニーを後にした増水国之助(ますみず・くにのすけ)は、アメリカで黒人女性と結婚して魚屋を営み、3人の子供を儲けた。残りの者についての行方は分からない。

一方、子守の少女「おけい」と桜井松之助(さくらい・まつのすけ)の2人は、崩壊した若松コロニーで平松武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)の帰りを待ち続けた。

しかし、平松武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)が若松コロニーへ帰ってくることは無く、少女「おけい」と桜井松之助の2人は、若松コロニーの跡地を購入したビーア・カンプの使用人として働くことになる。

少女「おけい」はビーア・カンプの使用人となった翌年の1871年に、高熱に冒されて死亡した。享年19歳だった。少女「おけい」のお墓は、同じくビーア・カンプの元で働いていた桜井松之助が建てたとされている。

桜井松之助は日本に戻ることは無く、生涯、ビーア・カンプに使えて、アメリカで死去した。享年67歳だったという。

なお、ジーンズ(ジーパン)はカルフォルニアのゴールドラッシュの影響で誕生した。ジーンズが誕生したのは、若松コロニーが崩壊した年と同じ1870年のことである。

戊辰戦争速記録のあらすじとネタバレ」へ続く。

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歴史翻弄された(おけいさん)の悲しい人生であり涙が止まりません。
桜井松の助さんと今頃楽しくお茶をつくっておりますか。

  • 投稿者-
  • 加藤勲