会津藩から斗南藩(となみはん)へ
山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜-会津編」のあらすじとネタバレシリーズ「斗南藩を設立するあらすじとネタバレ」編です。
このページは実話「山本八重の桜」の「戊辰戦争速記録のあらすじとネタバレ」編からの続きです。
実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■会津藩から斗南藩(となみはん)へ
1869年7月11日(明治2年6月3日)、東京で謹慎中の松平容保に実子の松平容大(まつだいら・かたはる)が生まれる。松平容大の母親は側室の佐久である。
会津戦争で負けた会津藩は家名断絶となるが、降伏から1年後の1869年12月5日(明治2年11月3日)、松平容保の子・松平容大は家名存続が許された。
松平容大には家督を相続した養子・松平喜徳が居たが、家名存続を許されたのは実子の松平容大だった。
養子の松平喜徳は1873年に弟・松平頼之が死亡すると、松平容保との養子縁組を解消し、弟・松平頼之の養子となり、弟・松平頼之の家督を継いでる。
家名存続が許された松平容大は、青森県東部に3万石を拝領し、斗南藩(となみはん)を立藩することになる。斗南は、漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める土地)から名付けたものである。
会津藩は、領地を「青森県東部」か「猪苗代(福島県耶麻郡)」かを選択することが出来た。会津藩士の中には猪苗代での再興を主張する者多かったが、喧々囂々の末、会津藩は青森県東部での存続を選んだ。
会津藩が青森県東部を選んだ理由には諸説があるが、一説によると、重い税金を課していた会津藩は、会津の民から恨まれており、農民もヤーヤー一揆を起こしたことなどから、猪苗代で会津藩・松平家を再興するのは難しいと考え、青森県東部を選んだという。
また、会津藩は多額の借金を作っていたうえ、偽金を製造して流通させていたため、会津地方はハイパーインフレとなり、経済はボロボロになっていたことも青森県東部を選んだ理由とされている。
斗南藩の立藩に伴い、各地で謹慎していた会津藩士は、1870年2月5日(明治3年1月5日)に謹慎が解かれ、1870年5月から新天地となる斗南藩への移住が始まった。
しかし、全ての会津藩士が斗南藩への移住したわけでは無かった。斗南藩へ行かず、会津に残った会津藩士も多かった。
斗南藩は3万石とされているが、実質は7000石とされる不毛の地だった。会津23万石(実質30万石とも言われる)から比べれば、実質10分の1以下の収入となり、斗南藩での生活が苦しいことは目に見えていた。
このため、斗南藩士として会津に残った者も居れば、会津藩士の身分を捨てて農民や商人になった者も居た。NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる山本八重も、斗南藩へは行かず、会津に残った。
■川崎尚之助と斗南藩
会津藩は、青森県東部で斗南藩として存続することになり、農業で生計を立てることとなるが、農業が上手くいかず、飢えに苦しんでいた。
会津時代は農民から搾り取れば良かったが、斗南藩ではそういう訳にはいかず、斗南藩士も自ら農作業に従事しなければならなかった。
そこで、立ち上がったのが、山本八重の夫・川崎尚之助であった。川崎尚之助は他の会津藩士と同様に猪苗代を経て東京で謹慎した後、斗南藩へ入った。
ただ、川崎尚之助は謹慎が解けた後に京都で滞在していたため、川崎尚之助が斗南藩へ入ったのは、会津藩士よりも数ヶ月遅れた1870年10月のことである。
斗南藩士となった川崎尚之助は「開産掛」に任命され、商取引で利益を上げる仕事に就いた。農産物が取れない斗南藩にとって貿易は貴重な収入源であり、開産掛は斗南藩を救う重要な仕事だった。
そして、川崎尚之助は商取引を行うため、斗南藩士・柴太一郎と共に貿易の盛んな北海道・函館へと渡り、斗南藩士を名乗る米座省三(よねざ・しょうぞう)と知り合うのであった。
一方、妻の山本八重は戊申戦争後、斗南藩へ移らず、会津に残った。そして、死んだと知らされていた兄の山本覚馬が生きていることが判明すると、兄・山本覚馬頼って京都へと移った。
実話「山本八重の桜-会津編」の「会津藩の降伏後の山本八重-生きていた山本覚馬のあらすじとネタバレ」編へ続く。
コメント欄
斗南とは現在のどのあたりですか
■清水稔さんへ
斗南藩の領地は飛び領地となっており、現在の住所にすると、斗南藩の北部領土が青森県の「むつ市」「佐井村」「大間町」「風間浦村」「東通村」「横浜町」「野辺地村」です。
斗南藩の南部領土が青森県の「十和田市」「五戸町」「新郷村」「三戸町」「田子町」です。
北部領土と南部領土の間には「七戸藩」という藩があります。また、後に北海道の一部が斗南藩の領土となっています。
>会津藩は、領地を「青森県東部」か「猪苗代(福島県耶麻郡)」かを選択することが出来た。
についてですが、元会津図書館長の野口信一氏が「猪苗代は候補ではなかったのではないか」とする説を唱えるようになりましたが(以前は野口氏も「斗南か猪苗代か選択」説を支持していたようです)、このことについてどう思われますか?
大まかに書くと、野口氏は理由として
・猪苗代選択説の元の出典が不明
・若松県知事四条隆平が「速やかに斗南へ移住してもらわねば鎮撫の自信は持てず、職務を免じさせて頂きたい」と申し出た記録がある
・水島純が大正六年に東京で講演した内容によると、斗南移住反対の水野主水と斗南移住賛成の永岡久茂の激論があったとされ、斬り合い直前の闘争になった。主水は会津地方で復興すべきと言った様だ。
・この激論が拡大解釈され斗南か猪苗代か選択説が出たのではないか。
5)保科正之の墓所があることから猪苗代説が後付された可能性がある。
としています。
■名無しさんへ
たしかに、猪苗代選択説は、出典がよく分からないという欠点がありますが、現在では一番信憑性のある説だと思います。
野口信一さんの説は仮説としては面白いと思いますが、まだ猪苗代選択説を覆すほどの信憑性は無いと思います。