実話-山本八重と新英学校及女紅場のあらすじとネタバレ

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重(山本八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「新島八重の桜-京都編」のあらすじとネタバレシリーズ「実話-山本八重と新英学校及女紅場」編です。

このページは「実話-山本覚馬とカール・レーマンのあらすじとネタバレからの続きです。

実話「新島八重の桜-京都編」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■山本八重が新英学校及女紅場の教導試補に
1871年(明治4年)10月に山本八重らが京都へ到着し、山本覚馬の家で住み始める。

1872年5月20日(明治5年4月14日)に、京都府河原町にある旧九条邸で女学校「新英学校及女紅場」が開校する。

東京では既に、明治5年2月に「官立女学校」(東京女学校)が開校しているので、京都府の新英学校及女紅場は、日本では2校目の女学校で、京都では初の女学校である。

正式には「新英学校及女紅場」だが、単に女紅場(にょこうば)と呼ぶ場合が多い。「新英学校及女紅場」を「新英学級及女紅場」と呼ぶこともあるようだ。

なお、新英学校及女紅場は、1876年(明治9年)5月に「女学校及紅場」へと改称し、現在の「京都府立鴨沂高等学校」となっている。

一般的な女紅場は、女性が裁縫などを習って手に職を付ける場所で、京都府の新英学校及女紅場は「女紅場」に「新英学校」を併設した女学校である。

新英学校及女紅場の「新英学校」は、華族や士族の女子を教育する学校で、英語や数学を教えた(後に一般身分も入学できるようになった)。

「女紅場」は必須科目で、「新英学校」は希望制だった。新英学校を卒業した者は、教師になる免許を得られた。

山本覚馬は新政府に提出した意見書「山本覚馬建白(管見)」で、女性への教育の重要性を指摘しており、山本覚馬建白で述べたことが、京都で女学校「新英学校及女紅場」として実現することとなった。

一説によると、山本覚馬の母・山本佐久は聡明で、山本覚馬も山本佐久にはつくづく感心されられており、山本覚馬が女性への教育の重要性を悟ったのは、母・山本佐久の存在があったからだという。

■山本八重と女紅場
山本八重は山本覚馬の家で同居するようになって以降、何をしていたのか分からないが、新英学校及女紅場に通学するようになっていた。

その後、山本覚馬の推薦により、権舎長・教導試補として新英学校及女紅場で働くことになる。新島八重の月給は3円から3円50銭だった。

山本八重は教導試補として新英学校及女紅場で、小笠原流礼法と養蚕とを教えた。

小笠原流礼法は会津藩の日新館が会津藩士に教えていた武士の礼儀作法で、養蚕は会津で盛んだった産業である。

教導試補と同時に権舎長となった山本八重はこれ以降、新英学校及女紅場の宿舎で寝泊まりするようになったため、あまり山本覚馬の自宅には戻らなくなった。

山本覚馬が18歳の愛人・小田時栄と同棲しているところに、山本八重らがやってきたという経緯があるため、山本覚馬は山本八重に権舎長の仕事を任せたのかも知れない。

■山本八重と裏千家との出会い
山本八重が新英学校及女紅場で働き始めたとき、裏千家13代の千宗室(円能斎)の母・猶鹿子(しかこ)が新英学校及女紅場で茶道を教えていた。

京都の新英学校及女紅場は、華族や士族の女子を教育する学校なので、茶道や華道も盛んだった。

山本八重は新英学校及女紅場で猶鹿子(しかこ)と知り合ったことがきっかけで、茶道を始めることになる。

山本八重が本格的に茶道を始めるのはもう少し後のことだが、茶道は、晩年の山本八重の拠り所となっており、猶鹿子との出会いは山本八重にとって運命の出会いであった。

実話「新島八重の桜」の京都編「小野善助と日本初の京都博覧会のあらすじとネタバレ」へ続く。

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