小野組転籍事件

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重(山本八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「新島八重の桜-京都編」のあらすじとネタバレシリーズ「山本八重の小野組転籍事件」編です。

このページは「小野善助と日本初の京都博覧会」からの続きです。

実話「新島八重の桜-京都編」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■東京遷都と小野組
京都府民は東京遷都に大反対したが、1869年(明治2年)に明治は京都府に産業基立金10万両を置き土産として、首都を京都から東京へと移し、明治天皇は東京へと引っ越した(東京遷都)。

京都は、1864年8月19日に起きた「禁門の変」の戦火を原因とする大火災(どんどん焼け事件)により、衰退していた。明治天皇が東京へ移ったのは、どんどん焼けによる荒廃が原因だとされている。

東京遷都により日本の首都が東京になると、経済の中心は東京へと移り、京都からも多くの企業が東京へと流出していく。そのようななか、京都である事件が起きた。

■小野組転籍事件
1873年(明治6年)4月、明治政府に多額の献金を行っていた京都府の豪商「小野組」が東京や神戸へ移転するため、京都府に転籍願いを出したのである(小野組転籍事件)。

豪商「小野組」は明治政府に多額の献金をしており、明治政府樹立に大きな貢献をしていた。このため、明治政府から「大蔵省為替方」(政府のお金を管理する仕事)を任せられていた。

東京遷都にともない、新政府の機関が東京へ移ると、小野組の仕事も東京での処理が多くなってきたため、東京へ転出することにした。

小野組は、為替方の業務の度に戸籍謄本が必要だったため、東京へ移転した方が業務効率が良かったことに加え、京都府から度々、通常の税金以外の納税(御用金)を命じられることに嫌気をさしていた。

このため、豪商「小野組」の小野助次郎は京都へ、小野善右衛門と小野善助は東京へ移転することにし、京都府へ転出願いを出したのである。

しかし、京都改革に必要な財政源を失うことを恐れた京都府の大参事・槙村正直は、小野組の転籍願いを握りつぶしてしまう。

そのうえ、大参事の槙村正直は、小野組の小野善右衛門らを二条城の白州に呼び立てると、むしろの上に座らせ、転籍の理由を尋問したうえで、転籍の中止を迫ったのである。

京都府の行為は、もはや、江戸時代の奉行が罪人に裁きを下すかのような振る舞いだった。これに怒った小野組は、京都裁判所に「送籍」を求めて提訴した。

大参事の槙村正直は木戸孝允の懐刀で、木戸孝允の推薦で京都府の大参事に就いた経緯がある。槙村正直も木戸孝允も長州藩出身のため、京都府は長州藩色が強かった。

これに対して、三権分立を推進していた司法卿(法務大臣)の江藤新平は佐賀藩出身だった。

司法卿(法務大臣)の江藤新平は、薩摩藩・長州藩を中心とした政権に反感を持っており、長州藩と刺し違える覚悟で、京都府の対応に厳しく臨んだ。

そこで、司法卿の江藤新平は、長州藩色の強い京都府と渡り合うため、天誅組の生き残りとして有名な北畠治房を裁判官として京都裁判所へと送り込んだのである。

京都裁判所の裁判官となった北畠治房は、京都府に対して「小野組の転籍」を命じる。しかし、京都府大参事の槇村正直は「政府に伺い中につき、提出できない」と判決を拒否した。

京都裁判所は大参事の槙村正直らに罰金刑を命じるが、京都府は京都裁判所の命令をノラリクラリと無視し続け、出頭すらしなかった。

京都府の対応に怒った京都裁判所は、京都府に対して「拒否の罪」を適用し、事件は民事事件から刑事事件へと発展してしまうのである。

その後も京都府は京都裁判所の出頭命令を無視。怒った北畠治房は京都府に懲役判決を下し、東京に出ていた京都府大参事・槙村正直を逮捕するという力業に出た。これに頭を抱えたのが、京都府顧問の山本覚馬である。

■西暦の採用
明治政府は1872年(明治5年)に西暦(グレゴリオ暦)を採用した。それは、小野組転籍事件が起きる前年のことである。

山本覚馬は幽閉中に書いた意見書「山本覚馬建白(管見)」で西暦の採用を主張していた。明治政府は1872年(明治5年)になり、西暦を採用し、ようやく時代が山本覚馬の才能に追いついてきた。

山本覚馬は京都府の顧問となり、大参事の槙村正直と二人三脚で京都府の復興に力を注ぎ、意見書「山本覚馬建白(管見)」で描いた主張したことを1つ1つ実現させていた。

小野組転籍事件が発生し、大参事の槙村正直が逮捕されたのは、そんな時だった。

山本覚馬は「山本覚馬建白(管見)」でも示したとおり、近代国家を目指していたため、考え方は三権分立を目指す司法卿の江藤新平に近いのだが、槙村正直は京都の産業復興にどうしても必要な人物だった。

そこで、山本覚馬は大参事の槙村正直を助けるため、山本八重と共に東京へ向かうことにした。

■山本八重が東京へ行く
失明したうえ、脊髄を痛めて歩けなくなった山本覚馬は、妹・山本八重に背負われて東京へ向かい、政府要人の岩倉具視や木戸孝允らに槙村正直の釈放を嘆願して廻る。

槙村正直と敵対する司法卿(法務大臣)の江藤新平の自宅を訪れた際には、男を背負う女が珍しいのか、破れた障子の隙間から、大勢の書生が山本覚馬を背負う山本八重のことをじっと見ていた。このとき、山本八重は恥ずかしい思いをしたという。

■征韓論問題と小野組転籍事件
そのころ、明治政府は、朝鮮に対する外交問題「征韓論」事件で揺れており、小野組転籍事件どころではなかった。

このとき、明治政府は要人の多くを岩倉使節団として海外に出しており、国内の「留守政府」と海外の「岩倉使節団」い分裂していた。

このため、留守政府は岩倉使節団が戻るまでは重大な政治決定はしない、という決まりになっていた。

しかし、留守政府として残った西郷隆盛らが約束を無視して、朝鮮に特使を送ることを決定したのである(征韓論事件)。

ところが、海外から戻った岩倉具視らの反対に遭い、特使の派遣は中止となる。これにともない、特使の派遣を進めていた西郷隆盛や司法卿(法務大臣)の江藤新平らは辞職してしまう。

京都府と対立していた司法卿(法務大臣)の江藤新平が辞職したことで、難航していた小野組転籍事件は一転した。

木戸孝允は禁固刑に変わる罰金刑を京都府に下し、京都府大参事・槙村正直を釈放した。そして、小野組を転籍させることで「小野組転籍事件」は終結したのであった。

実話「新島八重の桜」の京都編「山本八重と川崎尚之助の再会のあらすじとネタバレ」へ続く。

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大変面白く良き本を読了したかのような充実感がありました。

  • 投稿者-
  • せこたりょう