ジョセフ新島(新島襄)と森有礼

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「新島襄と森有礼のネタバレ」です。

このページは「ジョセフ・ニイシマ(新島襄)と森有礼」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』です。

■ジョセフ・ニイシマ(新島襄)が岩倉使節団に入る
1872年(明治5年)に入ると、少弁務使(駐米公使)の森有礼はジョセフ・ニイシマ(新島襄)に、アメリカを訪問中の岩倉使節団にアメリカの教育制度を報告するように依頼した。

明治政府は1871年12月23日に、政府の主要人物を多数、岩倉使節団として海外に派遣していた。

岩倉使節団の主な目的は、江戸時代に幕府が諸外国と結んだ不平等条約を改正するための準備交渉だが、近代国家を設立するため、諸外国の学校制度や病院制度などの視察も行っていた。

1872年2月末、アメリカ西海岸側から視察を開始していた岩倉使節団が、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)の居るボストンを訪れる。

■田中不二麿との出会い
1872年3月8日、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は森有礼に呼び出され、アーリントン・ハウスで岩倉使節団の理事官・田中不二麿に助言を行う。

田中不二麿は文部省の役人で、教育制度の視察を担当している人物だった。

アーリントン・ハウスにはジョセフ・ニイシマ(新島襄)の他にも12人の日本人留学生が居り、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は部屋の隅に立っていた。

報告に訪れた日本人は、理事官・田中不二麿に深々とお辞儀をしたが、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は田中不二麿にお辞儀をせず、ただ、胸を張って部屋の隅で立っていた。

理事官・田中不二麿は森有礼に「あれが新島か?」と尋ねると、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)の元まで歩み寄り、手を出しだしてお辞儀した。すると、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は握手して、頭を下げた。

面接に来ていた日本人留学生はジョセフ・ニイシマ(新島襄)の不敬な態度に驚き、愕然とした。

ジョセフ・ニイシマ(新島襄)の態度は日本人から見れば、礼儀を欠いているようにも思えるが、外国では当たり前の態度だった。

不平等条約を解消しようとしている日本にとっては、無意味に謙るようにな人間は必要無く、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)のように外国人と堂々と対等に渡り合える人材が必要であった。

■新島襄のお辞儀のネタバレ
ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は田中不二麿と面会する前、少弁務使(駐米公使)の森有礼を通じて、「私は日本政府が派遣した留学生ではありません。国費を使って留学した他の留学生と同列に扱わないでください」と申し入れていた。

このため、田中不二麿の方から歩み寄ってジョセフ・ニイシマ(新島襄)にお辞儀をしたのである。

少弁務使(駐米公使)の森有礼が推薦するだけの人物だけあって、田中不二麿は直ぐにジョセフ・ニイシマ(新島襄)を気に入り、岩倉使節団への随行を求めた。

すると、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は「私は政府の留学生ではありません。命令なら断ります。報酬を頂ける依頼であれば、引き受けます」と答えた。

このため、田中不二麿はジョセフ・ニイシマ(新島襄)を三等書記官として岩倉使節団に迎え入れることにした。

■新島襄と木戸孝允
ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は岩倉使節団に随行したさい、岩倉使節団に参加している明治政府の木戸孝允(長州藩出身)と会っている。

このとき、木戸孝允は、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)を「みだりに開国を唱える者とは異なり、志が誠実である。将来を頼むべき人物だ」と評価している。

後に新島襄がキリスト教主義学校(同志社英学校)を設立する際には、木戸孝允が京都府の大参事(府知事)・槙村正直を紹介している。

■ジョセフ・ニイシマのヨーロッパ視察
ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は三等書記官として岩倉使節団に随行することになったが、不平等条約解消の交渉にあたっていた岩倉使節団本隊がアメリカとの交渉が長引いたため、足止めを食っていた。

そこで、各分野を視察する分隊は岩倉使節団本隊と別れて、別行動で各分野を視察することになった。

教育制度を視察していた田中不二麿も、岩倉使節団本隊と別れてヨーロッパへ向かうことにする。

そこで、田中不二麿は好条件を提示してジョセフ・ニイシマ(新島襄)に同行を求めた。ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は悩んだが、随行を引き受けた。

1872年5月11日、田中不二麿とジョセフ・ニイシマ(新島襄)の2人がアメリカを発ち、ヨーロッパへと向かう。

田中不二麿と共にヨーロッパ各国を視察したジョセフ・ニイシマ(新島襄)であったが、ヨーロッパの寒さが体に厳しく、持病のリューマチに悩まされていた。ジョセフ・ニイシマ(新島襄)にとっては、辛いヨーロッパ視察となる

1872年9月、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)がベルリンに入る。長らくリュウマチと偏頭痛とに悩まされていたジョセフ・ニイシマ(新島襄)は療養するため、田中不二麿と別れてドイツに残る。

このとき、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)はドイツでヨーロッパの教育制度についての報告書の草案を作成した。

ジョセフ・ニイシマ(新島襄)がまとめた草案は、田中不二麿が帰国後に「理事功程」として明治政府に提出した。この田中不二麿の「理事功程」が日本の学校制度の基礎資料となっている。

ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は同志社大学の前進となる同志社英学校の設立者として有名だが、ドイツで作成した報告書の草案で、日本の教育制度の確立に大きく貢献している。

■岩倉使節団を辞職
1873年1月、立ち上がれなくなるほどリュウマチが悪化したジョセフ・ニイシマ(新島襄)は、岩倉使節団を辞職し、ドイツに残って温泉治療に専念する。

田中不二麿は「一緒に日本に帰国して、教育制度の確立に協力して欲しい」と頼んだが、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は政府の奴隷になることを嫌って日本への帰国を断ってドイツに残った。

このため、田中不二麿はジョセフ・ニイシマ(新島襄)のことを「耶蘇の奴隷」と言い、諦めて帰国した。耶蘇とはキリストのことである。

田中不二麿は日曜日に教会に通うキリスト教の信者であったが、保身のために洗礼は受けなかったため、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は田中不二麿を余り信用していなかったようだ。

■木戸孝允との再会
岩倉使節団を辞職したジョセフ・ニイシマ(新島襄)がドイツでリュウマチの治療に専念していたとき、木戸孝允との再会を果たし、交友を深める。

■ジョセフ・ニイシマの帰国
ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は田中不二麿の誘いを断ったものの、ヨーロッパの寒さはリュウマチに厳しいため、暖かい日本へ戻りたいと思うようになっていた。アメリカに戻るにしても、暖かい地方の学校へ転校を考えていた。

しかし、ハーディー夫婦に手紙で相談すると、ハーディー夫婦はアメリカに戻ってアンドーヴァ神学校へ復学するように助言した。

このため、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)はアメリカへ戻り、アンドーヴァ神学校へ復学することに決めた。

実話「新島八重の桜」の京都編「新島襄の5000ドルの寄付金-2ドルの精神のあらすじとネタバレ」へ続く。

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