新島襄の5000ドルの寄付金-2ドルの精神のネタバレ

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「新島襄の5000ドルの寄付金-2ドルの精神のあらすじとネタバレ」です。

このページは「新島襄と岩倉使節団のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』です。

■新島襄が準宣教師に成る
1873年7月、岩倉使節団を辞職してドイツでリュウマチ治療をしていたジョセフ・ニイシマ(新島襄)は、ハーディー夫婦の助言通り、アメリカへ帰国してアンドーヴァー神学校に復学する。

ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は岩倉使節団の田中不二麿に随伴してヨーロッパの教育制度の視察にアメリカを出て以来、1年半ぶりのアメリカである。

1874年4月、アンドーヴァー神学校を卒業したジョセフ・ニイシマ(新島襄)は、A・ハーディーが理事を務めるキリスト教団体「アメリカン・ボード」の日本部門の準宣教師に任命される。

ジョセフ・ニイシマ(新島襄)を宣教師として紹介する人もいるが、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)が日本に帰国したときの身分は、宣教師よりも格下の準宣教師である。

1874年9月、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)はボストンにあるマウント・ヴァノン教会で按手礼を受けて牧師と成る。

■新島襄の5000ドルの寄付金-2ドルの精神
1874年10月、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は、宣教師の海外赴任前に行われるキリスト教団体「アメリカン・ボード」の第65回アメリカン・ボード次年会でスピーチをする機会に恵まれ、3000人観衆に、日本でキリスト教主義の学校の設立する計画を訴えた。

このような無謀な主張は誰にも受け入れられないと思われたが、群衆の中から、「1000ドルを寄付したい」という者が現れた。これを皮切りに、次々と寄付が集まった。

演説を終えたジョセフ・ニイシマ(新島襄)が壇上から降りようとすると、1人の農民が駆け寄ってきた。農民は「この2ドルは汽車賃です。私は歩いて帰るので、受け取ってください」と言い、2ドルを寄付した。

また、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)が駅で帰りの汽車を待っていると、婦人が「今あるのはこの2ドルだけです。会場では恥ずかしくて申し出られませんでした」と言い、2ドルを差し出した。

こうして、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は、キリスト教学校の設立資金として、5000ドルもの寄付を集めることに成功したのである。

■寄付金5000ドルのネタバレ
この「2ドルの精神」という話しは「自責の杖」と並ぶ、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)を代表する美談の1つとなっているが、ネタバレしておくと、寄付金5000ドルのほとんどはアメリカン・ボードの理事によるものである。

ジョセフ・ニイシマ(新島襄)はアメリカに着いて以降、アメリカ船「ローヴァー号」の船主ハーディー夫妻から援助を受けて、学校へ通った。

ハーディー夫妻はボストンでも有数の資産家で、熱心なキリスト教(会衆派)の信者だった。

ジョセフ・ニイシマ(新島襄)がアメリカで通った3校は、いずれもキリスト教(会衆派)系の学校で、ハーディー夫妻の夫A・ハーディーが3校で理事を務めていた。

ジョセフ・ニイシマ(新島襄)が所属する宗教団体「アメリカン・ボード」もキリスト教(会衆派)系の宗教団体で、A・ハーディーはアメリカン・ボードでも理事を務めていた。

ジョセフ・ニイシマ(新島襄)から事前にスピーチの内容を聞いていたハーディー夫妻は、「このスピーチではお金が集まらないだろう」と考え、アメリカン・ボードの理事に募金するように根回しをしていたため、5000ドルもの寄付金があつまったのだ。

もちろん、農夫が2ドルを寄付した逸話にもあるように、一般信者からも寄付はあったが、5000ドルのほとんどはアメリカン・ボードの理事が寄付したものであった。

新島襄はスピーチで集めた寄付金5000ドルで同志社英学校を設立するのだが、同志社英学校の設立後、この5000ドルが、新島襄が外国人宣教師から嫌われるようになる要因の1つとなる。

同志社英学校は新島襄が設立した学校だが、外国人宣教師はアメリカン・ボードの理事が寄付したことを知っており、「アメリカン・ボードのお金で設立したのだから、アメリカン・ボードの学校だ」と考えていたため、外国人宣教師は新島襄と教育方針を巡って対立を深めることになる。

新島襄が遺書にまで書き残した、同志社英学校での日本人教師と外国人宣教師との対立の火種は、この寄付金5000ドルにあることはまだ誰も知るよしも無い。

■ジョセフ・ニイシマが帰国
かくして、5000ドルを集めたジョセフ・ニイシマ(新島襄)は、1874年(明治7年)11月26日に帰国すると、故郷の安中(群馬県)に一時帰郷した後、大阪へ向かった。

アメリカン・ボードは既に日本へ宣教師を送り込んでおり、在日の宣教師が神戸や大阪で布教活動を開始しいた。

新島襄はキリスト教主義学校の設立について、既に大阪で布教活動している在日宣教師ゴートンの協力を得るため、最初の赴任地を大阪に決めたのである。

なお、帰国したジョセフ・ニイシマ(新島襄)は、「ジョセフ」に「約瑟」という漢字を当て、「新島約瑟」と名乗ったが、その後、「新島譲」を経て「新嶋襄」へと改名している。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-帰国した新島襄のあらすじとネタバレ」へ続く。