実話-会津藩校「日新館」のあらすじとネタバレ

NHKの大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる山本八重(新島八重)の生涯を実話で紹介する「山本八重の桜」の番外編『実話-会津藩校「日新館」のあらすじとネタバレ』です。

■会津藩校「日新館(にっしんかん)」の設立
5代藩主・松平容頌の時代、会津藩は初代藩主・保科正之よりの借金に加え、大飢饉の発生により、藩政は苦しかった。このため、会津藩家老・田中玄宰が藩政改革を提案した。

会津藩は藩政改革の一環として、会津藩を支える人材を育成するため、会津藩は上級藩士の学校2校、中級藩士の学校1校、下級藩士の学校2校を開校した。会津藩の学校開校は、国家100年の計であった。

しかし、いずれも長屋を改造したような校舎であったため、上級藩士の学校2校を併合して、藩校「日新館」を建設することにした。

そして、会津藩御用商人(呉服商)の須田新九郎の寄付を受け、1798年(寛政10年)に藩校「日新館」を着工し、1803年(享和3年)に完成した。

藩校「日新館」は会津若松城の西隣に位置し、東西125間・南北64間
で8000坪の広さがあり、毛詩塾・三礼塾・尚書塾・二経塾を設置するほか、敷地内には水練場や天文台なども備えていた。後に江戸幕府の林正十郎が会津藩を訪れ、蘭学所も開設している。

藩校「日新館」に作った水練場は「水練水馬池」と言い、日本初のプールとされている。こうして開校した藩校「日新館」は全国でも屈指の藩校となり、3大藩校の1つに挙げらている。

なお、会津藩校「日新館」は上級藩士の学校であり、身分の低い中級藩士や下級藩士は藩校「南学館」「北学館」に入学した。

■日新館の入学
会津藩は藩士の子弟(男子)に藩校への入学を義務づけており、上級藩士の子供は10歳になると、会津藩校「日新館」に入学した。中級藩士や下級藩士は城外にある藩校「南学館」「北学館」に入学した。

藩校「日新館」に入学した上級藩士は、日新館の素読所(小学校に相当)で素読を学び、12歳になると習字を学び、14歳になると弓・馬・槍・刀を学んだ。

藩校「日新館」では試験があり、優秀な者は飛び級で進学することができた。

藩校「日新館」には大学に相当する施設「講釈所」も備えており、試験に合格すれば講釈所へ進学することが出来た。

さらに優秀な者は、江戸にある「昌平黌(しょうへいこう)」へ遊学することが出来た(江戸遊学)。

会津藩は教育に力を入れていたが、会津藩は身分制度が確立しており、教育が充実していたのは上級藩士だけで、中級藩士や下級藩士についての教育は充実していなかったという。

身分の低い下級藩士は藩校「日新館」ではなく、藩校「南学館」「北学館」に入学した。ただ、中級藩士・下級藩士であっても優秀な者は、試験に合格すれば、藩校「日新館」の講釈所(大学)に入学することが出来た。

■算術を嫌った会津藩士
会津藩校では兵学・医学・和学・柔術・礼式など多くの学問を教えたが、会津藩士は算術を嫌った。

会津藩の藩校「日新館」では算術「関流算術」を教えていたが、会津藩士は、算術(そろばん)は身分の低い商人のものとして、関流算術を学ぶ上級藩士はほとんど居なかった。

また、会津藩の上級藩士は、お金は身分の低い商人の物として、子供にお金を触ることを禁じ、お金の支払いは使用人に行わせた。

上級藩士の子供が教わったお金の支払い方の1つは、「お金を多めに渡して、お釣りを貰う」という方法だった。

上級藩士は算術を嫌っており、後に東京帝国大学や京都帝国大学の総長となる会津藩士・山川健次郎が九九を覚えたのは、16歳の時だったという。

■学問を嫌った会津藩士
会津藩校「日新館」は文武両道ということになっているが、藩主を守るのに必要なのは武芸であり、「文事(学問)が無くても恥では無い。武芸の無い者を恥とする」とされていたため、学問を学ぶ上級藩士は少なかった。

■鉄砲を嫌った会津藩士
会津藩校「日新館」では、鉄砲(砲術)を教えていたが、上級藩士は鉄砲を嫌った。

会津藩では、野戦を想定した「長沼流兵法」を採用しており、藩校「日新館」でも兵学で長沼流兵法を教えていた。

長沼流兵法の影響で、上級藩士は「鉄砲は下級藩士(足軽)の武器であり、上級藩士は刀や槍で堂々と戦う」という考えが根付いており、砲術を学ぶ上級藩士は居なかった。

戊申戦争(会津戦争)の時には、上級藩士も洋式銃の訓練を受けることになるのだが、上級藩士は「武士が地べたをはえるか」と激怒して、教官に斬りかかる者も居たという。

■会津藩の水上訓練
江戸時代の末期に、会津藩が江戸湾岸警備についたとき、幕府の命令で外国人に水上訓練を披露している。

会津藩は海を有していなかったが、藩校「日新館」の水練場で十分に訓練されており、会津藩が披露した水上訓練は、外国人を大いに驚かせたという。

■山本八重と日新館
江戸時代は女性に教育するという概念が無いため、女性が藩校「日新館」に入学することは出来ない。藩校「日新館」は完全な男子校であった。

女性には薙刀(なぎなた)が推奨されており、山本八重も薙刀を学んだ。中には私塾へ通ったり、家庭教師を雇う女性も居たが、会津藩士は女性への教育は熱心では無かった。

山本八重は女性なので、藩校「日新館」に入学することはなかったが、父・山本権八が藩校「日新館」で砲術師範を務めていた。

藩校「日新館」では、15流派の砲術を教えており、山本権八が砲術師範を務めていたのは、西洋式の砲術を専門とする高島流砲術だった。
山本八重の兄・山本覚馬は、9歳で藩校「日新館」に入学して頭角を現し、才能が認められて江戸の昌平黌(しょうへいこう)に遊学した。

そして、江戸遊学から戻った山本覚馬は、藩校「日新館」に蘭学所を開設した。

■藩校「日新館」の休校
戊辰戦争(会津戦争)の影響で負傷兵が運び込まれるようになると、会津藩主・松平容保は1868年5月(慶応4年閏4月)に日新館を休校とし、負傷兵のために病院として解放した。

その後、会津藩は藩校「日新館」で教えていた兵法「長沼流兵法」を廃止し、フランス式の軍隊制度を取り入れて軍制改革を行った。

この時、会津藩は年齢別に部隊を編成して、「玄武隊」「朱雀隊」「青龍隊」「白虎隊」などを作った。白虎隊の悲劇として有名な白虎隊が誕生したのはこの時である。

(実話「白虎隊の悲劇」について「実話-白虎隊の悲劇のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

日新館に入学していた藩士は、白虎隊などに編成され、藩校「日新館」が休校となる間、会津若松城の三の丸でフランス式の訓練を受けた。

■藩校「日新館」の消失と白虎隊
朝敵となった会津藩は、新政府軍(明治政府軍)に侵攻され、会津若松城(鶴ヶ城)は新政府軍に包囲された。

1868年10月8日(慶応4年8月23日=籠城1日目)、会津若松城が新政府軍に包囲されると、会津藩は日新館が敵の拠点に利用される事を恐れて、西出丸から火矢を放って燃やした(日新館の放火事件)。

1868年10月8日の昼ごろ、「戸ノ口原の戦い」で敗走した白虎隊士中二番隊16名が飯盛山に落ち延びた。

一説によると、飯盛山から会津若松城を見ると、藩校「日新館」の火事で会津若松城が燃えているようにみえるといい、白虎隊士中二番隊16名が自害する前に見た火の手は藩校「日新館」の火事だったとされている。

NHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる山本八重の関連情報は「実話-山本八重の桜」をご覧ください。