実話-会津藩「什の掟」

NHKの大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる山本八重(新島八重)の生涯を実話で紹介する「山本八重の桜」の番外編「実話-会津藩の什の掟」です。

■実話-会津藩の什の掟(什の誓い)
会津藩の上級藩士の子弟は、10歳になると会津藩校「日新館」に入学する。会津藩校「日新館」に通う者は、身分(居住区)によって9班に分かれた。

(注釈:身分の低い中級藩士や下級藩士は、会津藩校「南学館」「北学館」に入学した。)

日新館に入学する前の6歳から9歳の会津藩士の子共は、この9班に準じて9つの班を作り、10人程度の「什(じゅう)」というグループを形成した。

什では、身分に関係なく、年長者(9歳)が什長(座長=リーダー)を務めた。9歳の者が複数人居るときは、早生まれの者が什長となった。

什では、身分や能力に関係無く、年功序列によって厳しく秩序が守られた。年少者が年長者よりも先に席を立つことは許されなかった。

什の子供達は、午前中は寺子屋などで素読を学び、午後からは天候に関係無く、1カ所に集合した。子供達は什というグループで行動し、単独行動は許されなかった。

一度集まると、什長が解散を宣言するまで、勝手に帰ることは許されなかった。遠方からの訪問者がある場合などは、両親が年長者に許可を得る必要があった。

什のメンバーは当番制で自宅の一室を提供することになっており、昼食が終わると、一室に集まった。当番に当たった家は、必ず夏は水を、冬は湯を出さなければ成らなかったが、お菓子や果物を出すことは禁じられていた。

子供達の集会を「遊び(什の遊び)」と言い、什長は什の遊びで「什の掟」を暗唱する。

これが「ならぬことはならぬものです」で有名な会津藩の「什の掟」で、リーダーが「什の掟」を暗唱することを「御話(お話の什)」という。

■会津藩「什の掟」
一・年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二・年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三・嘘言を言ふことはなりませぬ
四・卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五・弱い者をいぢめてはなりませぬ
六・戸外で物を食べてはなりませぬ
七・戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

この什の掟が最も有名であるが、什の掟はグループごとに制定したルールであるため、グループによっては「什の掟」の内容は若干、異なる。

子供達が集まると、毎回、什長が「什の掟」を暗唱し、子供達はリーダーが1つ読み上げるごとに、「はい」と返事してお辞儀した。

早く遊びに行きたくてウズウズしている時は、什長が口早に「什の掟」を暗唱し、子供達はテンポ良く「はい」「はい」と返事した。

什長の御話(話しの什)は毎日、行われていたため、子供達はみな「什の掟」を記憶していた。

■会津藩「什の掟」の裁判
什長が「什の掟」を言い終えると、子供達に「什の掟」に反した者は居ないか尋ねる決まりとなっている。

このとき、「什の掟」に反した者を知っている者は、「山本覚馬が戸外で女性を話しておりました」などと告訴する。

すると、什長は告訴された者を中央に呼び、違反の事実を問いただす。違反が事実であれば、罪の重さによって制裁が加えられた。

■会津藩「什の掟」の制裁
1・無念(むねん)の制裁…違反が軽い場合は、リーダーが「無念を立てなさい」と命じ、違反者は各人に向かって「無念でありました」と言ってお辞儀して謝罪する。

2・竹篦(しっぺい)の制裁…竹篦とは「シッペ」のことで、罪が軽い場合には掌にシッペし、罪が重い場合は手の甲にシッペが行われた。また、罪の重さによって回数が決められた。

シッペの制裁はリーダーの監視下で行われ、仲の良い者が形式的にシッペするような場合は、即座にやり直しが命じられた。

3・派切る(派切り)の制裁…「派切る」とは絶交のことで、子供を仲間はずれ(村八分のようなもの)にする制裁で、制裁の中で1番重い制裁である。

派切るの制裁を受けた者は、両親や兄に付き添いの元で、什長に謝罪しなければ、派切るの制裁は解除されなかった。

派切るの制裁は、破廉恥な行為をするなどの重罪を犯さなければ適用されることはなかったが、時々、独裁者のような什長が現れ、派切るの制裁を連発して全員を仲間はずれにしてしまい、什長が反対に仲間はずれになるような事態もあった。

4・手炙りの刑…手炙りの刑とは、「什の掟」に背いた者(被告)の手を火鉢の上にかざし、子供達が鼻の脂を指で被告の手に付けて溶かす刑罰である。例外的に行われたという。

5・雪埋めの刑…雪埋めの刑とは、「什の掟」に背いた者(被告)を雪に押し倒し、雪をかける刑罰である。例外的に行われたという。

■会津藩「什の判決」
什の裁判の判決は什長が決定するが、什長は9歳なので判断が付かない場合は、10歳以上の年長者に判断を仰いだ。それでも納得が出来ない場合は、大人の通行人を捕まえて、意見を求めた。

年長者や大人でも、人によって意見が異なるときがあり、時々、裁判がやり直しと成り、判決が覆ることもあった。

■年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
什の掟には「年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ」という掟があるため、柿の木に登って柿を取っている時でも、年長者を発見するとお辞儀をした。

■戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
什の掟には「戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ」という掟があるため、戸外で婦人と話していた子供が告訴され、什の裁判にかけられた。

審問で、話していた女性が母親であることが判明したが、母親が婦人に該当するのか、該当しないのか、9歳の什長には判断が出来ないかった。

そこで、年長者に意見を求めると、「母親なら差し支えないのではないか」ということで、裁判は無罪となった。

なお、当時は女性に教育をするという概念はほとんど無く、什の掟に「戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ」と定められている通り、什の掟は男子のものであった。

■戸外で物を食べてはなりませぬ
什の掟には「戸外で物を食べてはなりませぬ」という決まりがあり、自宅の柿の木に登って柿を食べていた子供が告訴された。

しかし、什長には判断が出来ず、年長者の意見を順番に聞いた結果、裁判はやり直しとなり、判決は覆った。

■什の掟の例外
什の掟に定められている「戸外で物を食べてはなりませぬ」という掟は、買い食いも禁じているが、お祭りの日には買い食いが許された。

子供達もお祭りの日は、出店で色々な物を買って神社に集まって食べた。子供達にとって、買い食いが許されるお祭りの日は天国であった。

■卑怯な振舞をしてはなりませぬ
什の掟には「卑怯な振舞をしてはなりませぬ」という決まりがあるため、子供達は別の什(グループ)とすれ違うときはちょっとした珍現象が起きる。

什と什とがすれ違うとき、人数が多い方の什は肩をすぼめて小さくなり、人数が少ない方の什は肩を怒らせて歩くのだ。

これは、多勢が無勢に傲慢な態度を取ると「卑怯な振る舞い」に該当するため、什の制裁を受けるのを恐れて、人数が多い方の什は肩をすぼめて小さくなるのである。

一方、人数が少ない方の什は、相手の什が傲慢な態度を取ると、卑怯な振る舞いをしたとして、告訴することができるため、肩を怒らせて挑発するように歩くのである。

■日新館の入学後の什
日新館に入学するまでは「遊びの什」で、朝から夕暮れまでの遊びであったが、日新館に入学後は「生徒の什」として、夜も集まっていた。

■什の遊びに精を出せ
什の遊びに参加していれば、集団生活や年功序列の秩序が学べるため、会津藩士の家庭では、両親は決して子供に「勉強しろ」とは言わず、「遊びに精を出せ」「遊びに欠席するな」と言い、子供を遊ばせた。

なお、この時代は、「藩主を守るのに必要なのは武芸であり、学問は無くても恥では無い。武芸の無い者が恥である」とされており、会津藩は教育に力を入れていたが、会津藩士は学問を好まなかった。

実話「山本八重の桜」の番外編「実話-会津藩校「日新館」のあらすじとネタバレ」へ続く。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。