新島襄のお墓に隠されたフリーメーソンの秘密

歴史に埋もれた陰謀や黒幕を紹介する都市伝説のあらすじとネタバレシリーズの第2弾「同志社を設立した新島襄はフリーメーソンのメンバーだった後篇」です。

このページは「新島襄はフリーメーソンだった」からの続きです。

■新島襄はフリーメーソンだった
アメリカのボストンに着いた新島七五三太(新島襄)は、アメリカまで送ってもらったアメリカ船「ワイルド・ローバー号」の船主ハーディー夫妻の養子となり、ハーディー夫妻から「ジョセフ」という名前をもらう。

これ以降、新島七五三太(新島襄)はアメリカで、「ジョセフ・ニイシマ」と名乗った。ハーディー夫妻の家族を示すため「ジョセフ・ハーディー・ニイシマ」と名乗ることもあった。

このハーディ夫妻もフリーメーソンのメンバーなので、新島襄が「ジョセフ・ハーディー・ニイシマ」と名乗ることは、フリーメーソンのメンバーになったことを意味している。

さて、ハーディー夫婦は、銀行やハーディー商会を経営して財産を築いたボストンでも有数の富豪で、熱心なキリスト教(プロテスタント)の信者だった。

ハーディー夫妻はジョセフ・ニイシマ(新島襄)の生活費や学費を全て負担し、3つの学校に通わせたた。

ジョセフ・ニイシマ(新島襄)がアメリカで通った学校3校はいずれも、プロテスタント系の学校で、ハーディーが理事を務めていた。つまり、いずれも、フリーメーソン系の学校だった。

ジョセフ・ニイシマ(新島襄)がアーモスト大学に通っていたとき、後に「少年よ大志を抱け」の名言で有名になるウィリアム・クラーク(クラーク博士)の授業を受けている。

ウィリアム・クラークは有名なフリーメーソンの幹部で、ウィリアム・クラークが後に北海道の札幌農学校で教師をするようになるのは、新島襄がフリーメーソンの縁で頼んだからだである。

■新島襄とフリーメーソンの森有礼
アメリカに渡り、6年が経過したころ、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は帰国について考えていた。国禁を犯して脱国した犯罪者だったため、日本に帰る方法を探し始めていた。

ちょうどどのころ、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は、アメリカに赴任したばかりの少弁務使(駐米公使)・森有礼(もり・ありのり)に呼び出された。

森有礼は、以前に説明した通り、長崎の武器商人トーマス・グラバーの支援を受けて、海外留学をした人物で、森有礼もフリーメーソンのメンバーである。

ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は脱国した犯罪者だったが、森有礼の協力により、留学免許状やパスポートを取得することが出来き、正式な留学生という扱いになった。

既に、江戸幕府は倒れて、明治政府が成立していた。日本への進出を目論むフリーメーソンは、武器商人トーマス・グラバーを通じて西軍(薩摩藩・長州藩)を支援していたため、明治政府の中にはフリーメーソンのメンバーが多くいた。

このため、犯罪者となっていたジョセフ・ニイシマ(新島襄)に、留学許可書やパスポートを発効することなど、造作も無いことであった。

また、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は森有礼の推薦により、岩倉使節団に三等書記官として採用される。

こうして、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は岩倉使節団で、フリーメーソンの木戸孝允とも会い、日本人フリーメーソンとの人脈を広げた。

■5000ドルの寄付とフリーメーソン
やがて、岩倉使節団を離れてアメリカに帰国したジョセフ・ニイシマ(新島襄)は、アンドーヴァ神学校を卒業して、キリスト教系団体「アメリカン・ボード」に所属し、準宣教師となる。

そして、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は準宣教師として日本に赴任することになる。

ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は、赴任前に行われる次大会の演説で、「日本でキリスト教主義学校を作りたい」と訴え、5000ドルの寄付を集めた。

この寄付はジョセフ・ニイシマ(新島襄)の演説で集まったことになっているが、本当はハーディー夫婦が事前にフリーメーソンの仲間に寄付を頼んでいたからだった。

実際、5000ドルのほとんどは、キリスト教系団体「アメリカン・ボード」の理事や前市長などの有力者が寄付したものである。

■新島襄の同志社とフリーメーソン
アメリカ時代、ジョセフ・ニイジマは「ジョセフ」に「約瑟」という漢字を当て「新島約瑟」と名乗ったが、「約瑟」が難しいため、「新島襄」へと改名する。

さて、日本に帰国した新島襄は当初、故郷の安中(群馬県)にキリスト教学校を建設しようとした。

新島襄は安中藩出身で、実家が安中(群馬県)にあったため、一時帰郷したとき、安中でキリスト教の布教活動をしている。

この布教活動は、大勢の仏教徒や市民が話を聞きに来て、かなり評判が良かった。このため、新島襄は安中(群馬県)にキリスト教主義学校を建設しようとした。

しかし、フリーメーソンから大阪に居る宣教師デイビスと合流するように命じられ、大阪へ向かうことになった。

大阪に着いた新島襄は、フリーメーソンの木戸孝允にキリスト教主義学校の建設について相談すると、既に同志社の前身となる同志社英学校を設立するお膳立ては出来ていた。

木戸孝允は右腕としている槙村正直(長州藩出身)を京都府に送り込んでおり、同志社英学校の建設地となる薩摩藩邸跡も確保していた。
新島襄としては、安中(群馬県)の方が手応えがあったのだが、フリーメーソンの意向で、日本で一番仏教色が強い京都に同志社英学校を建設することになる。あえて京都にキリスト教の学校を建設するのは、フリーメーソンの戦略だった。

フリーメーソンは、長崎の武器商人トーマス・グラバーを通じて、薩摩藩・長州藩を支援していたため、新島襄の支援者は薩摩藩や長州藩の出身者が多い。

同志社英学校の設立を許可した京都府の大参事・槙村正直も長州藩の出身で、同志社英学校を建設地も薩摩藩邸跡だった。

■新島襄とフリーメーソン
フリーメーソンはキリスト教のプロテスタント色が強いが、宗教団体ではないため、プロテスタントとは完全に一致せず、色々な同志社英学校ではトラブルも起きている。

通常の宣教師は所属しているキリスト教団体「アメリカン・ボード」から給料を貰うのだが、新島襄はフリーメーソンのハーディー夫婦から個人的に給料を貰っていた。

だから、新島襄は宣教師よりも身分の低い準宣教師だったにもかかわらず、宣教師よりも多い給料を貰っていた。このあたりもトラブルの原因になっている。

アメリカでは「アンドーヴァー論争」という神学論争による内部対立が起こり、日本でも仏教徒の反発を受けたほか、教会合同運動などが起こったため、フリーメーソンの支援があったと言えども、簡単に物事は進まないことも多かった。

その一方で、新島襄はフリーメーソンの人脈をフル活用した。クラーク博士を日本に呼び寄せたり、京都看護婦学校建設のためにリンダ・リチャーズなどを日本に招いている。

また、ハリス理化学校を建設するため、アメリカのハリス頭取から5000ドルの寄付を受けている。このあたりも、フリーメーソンの縁だった。

■新島襄とジョン万次郎
新島襄とジョン万次郎(中濱萬次郎)の2人は、フリーメーソンゆえの共通点が多い。

新島襄もジョン万次郎も、アメリカに渡って船主(船長)の養子となり、アメリカの学校で学んで、アメリカで大金を手に入れた。そして、2人とも日本を離れてから10年後に帰国している。

■フリーメーソンの暗号
さて、細かなエピソードを紹介すると切りが無いので、最後にフリーメーソンの暗号を紹介する。

新島襄は死後、土葬にされ、木の墓標が建てられた。木の墓標は新島襄の遺言であったが、何故か、翌年に石の墓標に変更された。

最初に建てた木の墓標には、密かにフリーメーソンの印である定規とコンパスの印が入ったため、ある者がこれを嫌って石の墓標に立て替えたという。

そして、石の墓標の文字を書いたのは勝海舟なのだが、勝海舟が書いた新島襄の墓標をよく見ると、「島」の漢字が間違っている。横線が一本足りないのだ。

勝海舟ほどの人物が「島」という漢字を間違えるだろうか。しかも、勝海舟は書き直さずに、「島」を間違えたまま墓標にしている。

この新島襄の漢字を間違えた墓標こそ、新島襄とフリーメーソンとの関係を示す暗号なのだ。

なお、今回、紹介した都市伝説「新島襄はフリーメーソンだった」は全ては都市伝説なので、信じるか信じないかは貴方次第である。

都市伝説シリーズ第1弾の「南極物語のタロ・ジロは死んでいた」は「南極物語の都市伝説-樺太犬のタロ・ジロは死んでいた」をご覧ください。

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