新島襄の母親「新島とみ」のwiki
新島襄の母親・新島とみ(旧姓は田中とみ)についてのあらすじとネタバレwikiです。
NHK大河ドラマ「八重の桜」の登場人物のネタバレ一覧は『NHK大河ドラマ「八重の桜」のキャストのまとめ一覧』をご覧ください。
■新島とみのwiki
新島とみ(旧姓は田中とみ)は1807年(文化4年)10月10日に、武州(埼玉県)足立郡浦和宿で、穀問屋を営む中田六之丞の娘として生まれた。
資料によっては、新島とみを「新島富子」「新島登美」とする場合があるが、一般的には「新島とみ」と表記する。
■新島とみの結婚まで
1820年春、新島とみは、地方の慣習(14歳で江戸に奉公に出す)に習い、江戸へ出て、信濃国中ノ条の代官・新井平兵衛に腰元奉公した。このとき、新島とみは14歳であった。
1822年、新島とみは、新井平兵衛での腰元奉公の年季が明け(契約が満了し)たため、続いて、医師・雨森泉春に腰元奉公する。
1825年、新島とみ(19歳)は、医師・雨森泉春との腰元奉公の年季が明け(契約が満了し)たため、続いて、板倉藩家老・尾崎直記に腰元奉公する。
安中藩の家老・尾崎直記は安中藩士・新島弁治(新島襄の祖父)と親しくしていた事が縁で、新島とみは1831年2月20日(天保3年=25歳の春)に新島弁治の息子・新島民治と結婚した。
■結婚後の新島とみ
新島とみは結婚後、新島弁治との間に、4人の娘「新島くわ」「新島まき」「新島みよ」「新島とき」を出産する。
天保14年1月14日(1843年2月12日)に、長男となる新島七五三太(後の新島襄)を出産し、弘化2年(1845年)に次男となる新島双六を出産した。
■新島とみの回心
1874年(明治7年)11月、アメリカから帰国した新島襄(元・新島七五三太)の影響を受け、神棚から御札を取り払い、火鉢に捨てて燃やす。
1876年(明治9年)4月26日、母・新島とみら家族が上京して、新島襄の自宅離れに移り住む(新島襄と山本八重の結婚後)。
1881年(明治14年)5月1日、母・新島とみは京都第二公会で、宣教師ゴートンから洗礼を受ける。
母・新島とみは、長男・新島襄よりも6年も長く生き、1896年(明治29)1月7日に90歳で死去した。
新島襄や新島八重に関する情報は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。