実話-新島襄と山本八重の出会い

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄と山本八重の出会いのあらすじとネタバレ」です。

このページは「実話-帰国した新島襄のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島襄の大阪から京都へ
江戸幕府は「禁教令」でキリスト教を禁止していた。明治政府も江戸幕府の禁教令を踏襲した「切支丹邪宗門禁制」で、キリスト教を禁止していた。

しかし、外圧を受けた明治政府は、1873年(明治6年)に切支丹邪宗門禁制を廃止し、キリスト教の布教を許可した。

このため、大阪や神戸などの貿易港では教会も建たれられ、キリスト教の布教活動が始まったが、文部省は宣教師を教師として雇うことを禁止していた。

このようななか、1874年(明治7年)11月26日に帰国した新島襄は、故郷の安中(群馬県)に一時帰郷した後、大阪で布教活動を行っていた宣教師ゴートンを頼って大阪を訪れた。

■大阪にキリスト教学校を建設
アメリカン・ボードが最初に日本へ派遣した宣教師グリーンは、切支丹邪宗門禁制でキリスト教の布教が禁止されていたため、神戸で英語の学校を開き、英語の勉強を通じて布教活動を行っていた。

そのうななか、宣教師グリーンの元に、新島襄が5000ドルの寄付を得て日本に学校を建設するという知らせが入った。

そこで、宣教師グリーンはアメリカン・ボードの在日宣教師を集め、牧師を育成する神学校(ミッション・スクール)の開設を決議し、その地を大阪と決め、新島襄の到着を待った。

帰国した新島襄は故郷の安中での布教活動に手応えを感じており、安中でキリスト教の学校を設立しようと思ったが、既に在日宣教師は建設地を大阪に決めており、新島襄の赴任地は大阪となった。

そして、大阪へ到着した新島襄は、宣教師グリーンらの指示を受け、大阪で学校建設候補地を探し始める。

ちょうどこのとき、大阪では「大阪会議」が開かれており、政府要人が大阪へ集まっていた。

幸運にも、新島襄が横浜から乗った船の中に、大阪会議に出席する政府要人(伊藤博文だとされている)が乗っており、新島襄は政府要人にキリスト教学校の設立を相談できた。

そして、大阪へ付いた新島襄は、岩倉使節団で知り合った木戸孝允と再会し、キリスト教学校の建設候補地を探す一方で、キリスト教学校の設立について木戸孝允や伊藤博文と協議を重ねた。

木戸孝允はキリスト教学校の設立にも好意的で、木戸孝允の後輩で大阪府知事の渡辺昇を、新島襄に紹介した。

こうして、新島襄は、大阪府知事の渡辺昇に、キリスト教学校の設立を交渉することが出来だ。

しかし、大阪府知事の渡辺昇はキリスト教を嫌っており、「学校建設は認めるが、キリスト教の学校は認めない」と拒否したため、大阪府でのキリスト教主義学校の建設は頓挫した。

困った新島襄は、再び木戸孝允に相談すると、木戸孝允は京都府の大参事・槇村正直を紹介した。槇村正直は、木戸孝允が京都府に送り込んだ人材で、京都府の大参事(副知事)だったが、事実上のトップだった。

■新島襄が京都へ
当時は日米修好通商条約により、外国人は開港場(神戸などの貿易港)から10里(約40km)から出ることが禁じられてるため、在日宣教師が布教活動を行えるのも、開港場に限られていた。

在日宣教師が内陸部の京都へ入ることができないため、京都でのキリスト教主義学校の建設は無謀に思えたが、日本人が外国人を雇用すれば、外国人も内陸部で滞在できるという事であった。

安心した新島襄は木戸孝允から紹介状を受け取ると、京都へと向かった。なお、新島襄は木戸孝允の紹介により、大阪でも寄付金を集めている。

■山本八重と宣教師ゴートンの出会い
1875年(明治8年)3月20日、山本八重の夫・川崎尚之助が肺炎をこじらせて入院先の東京医学校病院で死去する。

川崎尚之助が東京の病院で死んだころ、山本八重は兄・山本覚馬の影響で、京都府京都市三条木屋町にある旅館に滞在している宣教師ゴートンから聖書を習い始めていた。

日米修好通商条約により、外国人は開港場(神戸などの貿易港)から10里(約40km)から出ることが禁じられており、普段は外国人が京都へ立ち入ることは出来ない。

しかし、京都府は博覧会に外国人を誘致していたため、博覧会の期間の間だけは外国人の立ち入りを許可していた。このため、大阪で布教活動をしていた宣教師ゴートンは療養を兼ねて京都に滞在していた。

既に宣教師ゴートンは京都博覧会を通じて山本覚馬と出会っており、中国語の聖書「天道溯原(てんどうそげん=天道溯源)」を山本覚馬に与えていた。

盲目の山本覚馬は、天道溯原を代読してもらい、キリスト教こそ真理だと悟り、宣教師ゴートンを京都府大参事の槙村正直にも引き合わせ、キリスト教について議論を重ねていた。

山本八重は、こうした縁で、宣教師ゴートンから聖書を習うようになっていたのである。

■山本八重と新島襄の出会い
1875年(明治8年)4月、山本八重は、馬太伝(マタイ伝=キリスト教関連本)を読むため、宣教師ゴートンが滞在している京都府京都市三条木屋町の旅館を訪れる。

すると、玄関では1人の男性が靴を磨いているところだった。靴を磨く男性など使用人くらいしかおらず、山本八重は男性を使用人かと思い、気にすること無く上がり込む。

その日、山本八重は、ゴートン夫人から1人の牧師を紹介される。なんと、ゴートン夫人が紹介した牧師は、先ほど玄関で靴を磨いていた男だった。そして、この牧師が新島襄だったのである。

後に結婚する2人であるが、このとき、新島襄は山本八重には興味を示さなかった。新島襄が興味を示したのは、山本八重が勤めている新英学校及女紅場(女学校)だった。

キリスト教主義学校の建設を計画を目論む新島襄は、山本八重に「女紅場を見学したい」と頼んだのである。

こうして、運命的な出会いをした2人であったが、2人に恋が芽生えるのはもう少し先のことになる。

■新島襄が山本覚馬と出会う
木戸孝允の紹介状を持って京都府庁(二条城)を訪れた新島襄は、京都府の大参事・槙村正直に、キリスト教主義学校の建設を訴えた。

キリスト教の学校と言う点は難問だったが、新島襄は5000ドル以上の寄付金を集めており、京都府に負担は無い。当初から教育の整備に力を入れていた大参事の槙村正直にとっては悪い話しではなかった。

大参事の槙村正直は、新島襄のキリスト教学校建設を許可することにした。そして、新島襄を博物館の御用係に採用し、京都府の顧問を務める山本覚馬を紹介した。

■京都府が許可した理由のネタバレ
京都府が新島襄の学校建設を許可したのは、大阪府が断ったからだとされている。

当時は大阪府と京都府は非常に仲が悪く、大阪府が断った案件なので、何が何でも実現させるとして、京都府は新島襄の学校建設を許可したのだという。

■新島襄と山本覚馬
その後、新島襄は山本覚馬に会い、キリスト教学校の建設を訴えた。山本覚馬は、既に宣教師ゴートンと知り合い、ゴートンにもらった漢語の聖書「天道溯原(天道溯源)」を読み、キリスト教に対する疑念を払拭していた。

また、幽閉中に書いた「山本覚馬建白(管見)」で教育の重要性を説いていた山本覚馬とって、学校建設は願ってもない話だった。

山本覚馬は新島襄のキリスト教主義学校の建設に賛同し、学校を建設する土地の提供を申し出た。

山本覚馬が提供する土地は、山本覚馬が幽閉されていた薩摩藩邸の跡地だった。山本覚馬は京都府の顧問になった後、薩摩藩邸を購入していたのだ。

山本覚馬は無償提供を申し出たが、新島襄は550ドルを払って薩摩藩邸を購入し、薩摩藩邸にキリスト教学校を建設することに決めた。

■新島襄と山本八重
1875年6月14日、新島襄は大阪へ戻り、在日宣教師やアメリカン・ボードにキリスト教学校の建設についての報告し、1875年6月29日に再び京都へ戻る。

再び京都を訪れた新島襄は、山本覚馬の自宅に寄宿しながら、京都府の大参事(府知事)・槇村正直らと協議して、学校建設の準備を進めていく。

このとき、山本八重は新英学級及女紅場(女学校)の権舎長を務めており、新英学級及女紅場の宿舎で寝泊まりしていたため、新島襄と顔を合わせる事はほとんど無かった。山本八重が兄の山本覚馬らが、学校建設を進めていることなども全く知らなかった。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄が婚約-山本八重の回心のあらすじとネタバレ」へ続く。