実話-新島襄の同志社設立物語-仏教徒の反発

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄の同志社設立物語-仏教徒の反乱のあらすじとネタバレ」です。

このページは「実話-新島襄が婚約-山本八重の回心のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■田中不二麿との再会
1875年(明治8年)8月、新島襄は同志社英学校建設の許可を取るため、京都府に「私学開業願」「外人教師雇入りにつき許可願」を申請する。

申請した「外人教師雇入りにつき許可願」は宣教師デイビスを教師として雇用するためのものだった。

当時は文部省が宣教師を教師として雇うことを禁じており、同志社英学校の運命は「外人教師雇入りにつき許可願」にかかっていた。

そこで、新島襄は添え状で、「規則は十分に承知していますが、資金不足で専任の外国人教師を雇う余裕がないため、高給を求めない宣教師デイビスを雇うことにしました。英学校は生活貧困者も学習が受けられるようにし、国家を支える人材を育成する所存です」と訴えた。

(注釈:この添え状には、教育科目として「聖経(聖書)」が挙げられていた。)

京都府の大参事・槙村正直は、新島襄に「私は許可するから、後は文部省の判断だ」と告げた。

このため、新島襄は文部省の許可を得るために東京へ向かう。

この時の文部大輔(文部大臣)は田中不二麿だった。新島襄は、岩倉使節団時代に、田中不二麿とヨーロッパの教育制度を視察しており、話しはトントン拍子で進むと思われた。

しかし、意外にも、田中不二麿の答えは渋かった。京都は仏教色が強いため、キリスト教が入ると、仏教徒からの反発が目に見えていたからだ。

明治政府は、東京遷都で京都市民から大反発を受けており、京都市民を刺激したくはないという事情もあり、外国人教師の雇用は許可しなかった。

しかし、3日間に渡る話し合いの結果、田中不二麿は「京都市民を刺激しない」との条件付きで、「私学開業願」「外人教師雇入りにつき許可願」を許可したのである。

■同志社英学校の校舎を確保
1875年(明治8年)10月、公家の高松保実から、月15円で中井屋敷(高松保実邸)を借りる契約を交わす。

山本覚馬から購入した薩摩藩邸跡に新校舎の建設を進めており、中井屋敷は新校舎が完成するまでの仮校舎であった。

■新島襄の引っ越し
1875年(明治8年)10月、山本覚馬の自宅に寄宿していた新島襄は、新鳥丸頭町にある岩橋邸を借り、移り住んだ。

一方、宣教師デイビスのために、御苑内にある柳原前光邸を借りて、宣教師デイビスを迎える準備を整えた。

東京遷都の影響で、御苑内は閑散としていたため、御苑内の屋敷を借りることができたと思われる。

■仏教徒の反発
江戸幕府は「禁教令」(キリスト教禁止令)でキリスト教を禁止していた。明治政府も江戸幕府の禁教令を踏襲した「切支丹邪宗門禁制」で、キリスト教を禁止していた。

明治政府は外圧を受けて1873年に切支丹邪宗門禁制を廃止し、キリスト教の布教が許されるようになったが、キリスト教は一般的に国民に受け入れられていなかった。仏教色の強い京都では、特にキリスト教への抵抗が強かった。

新島襄が山本八重と婚約したのは、キリスト教の解禁からわずか2年後の1875年10月15日のことだった。

京都ではキリスト教に対する反発が強く、2人の婚約は、一時は仲人を買って出た京都府の大参事・槙村正直にも秘密にしていた程だった。

1875年(明治8年)10月19日、神戸で活動していた宣教師J・Dデイビスが京都へ赴任したのを切っ掛けに、京都の僧侶ら1万2000人が猛反発した。

京都の僧侶は抗議活動を行い、宣教師デイビスの追放を政府に要請し、京都府大参事の槙村正直の元へも押し寄せた。

槙村正直は、山本覚馬とキリスト教について話し合っており、キリスト教に対する反対は無かった。新島襄のキリスト教学校の開校にも好意的だったが、仏教関係者からの反発により、槙村正直は新島襄に対する態度を一変させた。

1875年11月に入ると、京都府大参事の槙村正直は、新島襄と山本八重とが婚約したことを知り、実力行使に出ることにした。

1875年(明治8年)11月18日、京都府大参事の槙村正直は、新英学校及女紅場(女学校)で働く山本八重を解雇する。

山本八重が解雇された理由は、山本八重が新英学校及女紅場で生徒に度々、キリスト教の教えを説くようになっており、キリスト教を嫌う生徒の親が生徒を退学させようという動きが出てきたためである。

1875年(明治8年)11月19日、山本覚馬が提供した薩摩藩邸跡に建設中の校舎が完成するまでの間、学校の仮校舎として高松保実から中井屋敷(高松保実邸)を借る契約になっていたが、高松保実から契約解除を通知される。

既に契約は成立しており、契約金も支払っていたのだが、京都府大参事の槙村正直が家主の高松保実を呼び出し、契約を解除するように圧力をかけたのである。

1875年(明治8年)11月22日、以前から面会を拒否し続けていた京都府大参事の槙村正直が、新島襄を京都府庁(二条城)へ呼び出す。新島襄はようやく槙村正直との面会できた。

仏教徒からキリスト教学校についての質問状(実質的な抗議文)を受け取った槙村正直は、新島襄を博物館の御用係から解任し、新島襄に圧力をかけた。

一方、新島襄は文部大輔(文部大臣)の田中不二麿から、「学校で聖書を教えない」という条件で交渉すようにアドバイスを受けており、槙村正直に交渉を持ちかける。

そして、交渉の結果、「学校の授業では聖書を教えない。自宅なら聖書の授業をしてもかわまない。修身学であれば、学校で聖書を教えても良い」という条件で、槙村正直は新島襄の学校建設を認めた。

■宣教師デイビスの激怒
聖書(聖経)の授業が削除されたことを知った在日宣教師デイビスは、「そのような条件をのむのであれば、右手を切り落とした方がましだ」と激怒した。

京都に赴任してきた在日宣教師デイビスは、神戸へ引き上げようとした程、新島襄の判断に激怒していた。

新島襄が所属する宗教団体「アメリカン・ボード」は、キリスト教を広める「伝導主義」をとっており、外国人宣教師は、キリスト教を布教する「キリスト教大学(トレーニング・スクール)」を望んでいた。

しかし、新島襄は聖書を教えるキリスト教学校ではなく、キリスト教の思想を教育理念とする「キリスト教主義学校」を設立するうえ、聖書の授業がカリキュラムから削られたため、多くの外国人宣教師は新島襄を嫌うことになる。

■同志社英学校の開校
学校から聖書の授業を排除することで話し合いが決着すると、高松保実は契約解除の通知を取り消した。

高松保実は公家であったが、江戸幕府崩壊後は金銭的に厳しく、受け取った契約金を返したくないという事情があった。

契約解除を通知したのは、あくまでも京都府大参事の槙村正直の圧力を受けたからであり、新島襄と槙村正直の話し合いが解決すると、契約通りに中井屋敷を仮校舎として提供する。

「私学開業願」「外人教師雇入りにつき許可願」が許可されると、新島襄と山本覚馬の2人は同志社を結社して、同志社英学校の開校の準備に取りかかった。

同志社という名前は、山本覚馬が付けた。同志社とは、「同じ志を持った結社」という意味である。

1875年(明治8年)11月29日、新島襄は中井屋敷を無事にを借りることができ、中井屋敷に同志社英学校を開いた。

教師は新島襄と宣教師J.D.デイビスの2人で、生徒は元良勇次郎・中島力造・上野栄三郎ら8名だった。

山本覚馬が提供した薩摩藩邸跡に新校舎を建設しているため、中井屋敷に開校した同志社英学校は、新校舎が出来るまでの仮校舎である。

■同志社を潰す黒幕
京都府の大参事・槙村正直が新島襄に圧力をかけたのは理由は、仏教徒の猛反発もあるが、本当は黒幕による指示だった。その黒幕とは外務卿(外務大臣)の寺島宗則である。

当時の日本は、日本人が外国人を雇用することは出来たが、外国人が日本人を雇用することを禁じていた。

しかし、外国人が日本人の名義で店を出して、日本人や外国人を雇用するようなケースが増えてきたため、外務卿(外務大臣)の寺島宗則が厳しく取り締まり始めていた。

そのようなな、同志社英学校の設立の話しが持ち上がったのだ。同志社英学校の設立者は新島襄になっているが、実質的な設立者はアメリカン・ボードと言っても過言ではない状況だった。

そのことが、外務卿(外務大臣)の寺島宗則の耳にも入ったため、外務卿(外務大臣)の寺島宗則は、同志社英学校を外国人が設立した学校とみて、京都府の大参事・槙村正直に圧力をかけるように指示していたのだ。

当時、文部省は宣教師を教師にすることを禁じていたが、岩倉使節団で知り合った田中不二麿が文部大輔(文部大臣)をしていた関係で、特例により外国人宣教師を雇用することができ、同志社英学校を設立することが出来た。

ただ、新しい宣教師を雇う度に雇用許可を求めねばならず、その度に外務卿(外務大臣)の寺島宗則の壁が立ちはだかることになる。

一方、同志社英学校は無事に開校できたものの、外務卿(外務大臣)の寺島宗則に睨まれており、外務卿の寺島宗則の指示で同志社には度々、京都府の視察が入っていた。事件はそんな時に起きた。

■同志社は必ず栄える
同志社英学校が開校して直ぐ、京都府の視察が入り、宣教師が教室で禁止されている聖書の授業を行っているところが見つかってしまう。

このため、学校では聖書を教えないと約束した新島襄は、弁明に本葬する。

新島襄は弁明書で「修身の授業から完全に聖書を切り離すことは難しいため、修身の授業で聖書を使うことは、許可して頂いておりました」と釈明した。

しかし、京都府から弁明書の書き直しを命じられたため、新島襄は「修身の授業で質問があったため、回答を聖書から引用するために聖書を開いておりました」と訂正した。

釈明に奔走する新島襄のことを心配した山本覚馬が、妹・山本八重に様子を見に行かせると、新島襄は「神のご加護があるから、ご心配せずに」と答えた。

これを聞いた山本覚馬は、「同志社は必ず栄える」と確信したのであった。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄が山本八重と結婚した理由のあらすじとネタバレ」へ続く。