実話-熊本洋学校の物語-熊本バンドの誕生と同志社

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-熊本洋学校の物語-熊本バンドの誕生と同志社のあらすじとネタバレ」です。

このページは「実話-新島襄が山本八重と結婚した理由のネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■熊本洋学校
明治時代の初期、熊本県には熊本洋学校という英学校があった。当初は男子校であったが、女性も入学が出来るようになり、当時では珍しい男女共学となっていた。

当時は女性に教育を受けさせるという概念が無く、熊本洋学校が男女共学になることが決まったとき、男子生徒は「女と一緒に勉強など出来るか」と言って男女共学に反対した。

すると、教師L.L.ジェーンズは「貴方の母親は、男ですか、女ですか」と問うた。これに対して、男子生徒は口をつぐみ、熊本洋学校は無事に男女共学になった。

熊本洋学校の教師L.L.ジェーンズは、新島襄が同志社英学校を設立するよりも前に、当時では珍しい男女共学を取り入れており、同志社英学校よりも高度な授業を行っていた。

■熊本バンドの誕生
1876年(明治9年)、熊本県にある熊本洋学校で事件が起きた。それは、京都の薩摩藩邸跡に同志社の新校舎が完成する少し前のことである。

熊本洋学校の教師L.L.ジェーンズは宣教師ではなかったが、自宅で希望者に聖書を教えていたところ、熊本洋学校の生徒35名(海老名弾正・金森通倫・徳富蘇峰・横井時雄・浮田和民など)がキリスト教を信仰するようになり、洗礼を受けた。

そして、1876年(明治9年)1月30日、教師L.L.ジェーンズに感化された熊本洋学校の生徒35名が、熊本県郊外の花岡山で、誓約書「奉教趣意書」に署名をして、キリスト教結社を組織したのである(花岡山事件)。

このとき、花岡山で誓約書「奉教趣意書」に署名した生徒35人は、後に「熊本バンド」と呼ばれるようになる。

当時はキリスト教が受け入れられない時代だったので、花岡山事件が大問題となり、熊本洋学校は保守派から批判を受けた。その結果、教師L.L.ジェーンズは解雇となり、熊本洋学校は閉鎖に追い込まれた。

当時はキリスト教が邪教とされており、キリスト教に目覚めた熊本洋学校の生徒35名は村八部となり、家族からも迫害を受ける生徒も居た。

このため、京都に同志社英学校が開校する事を知った教師L.L.ジェーンズは、手紙で新島襄に生徒の引き受けを依頼した。

新島襄は教師L.L.ジェーンズの依頼を引き受け、同志社英学校に神学課(バイブル・クラス)を新設して、熊本洋学校の生徒を受け入れた。

行き場を失った熊本洋学校の生徒20数名が京都へ移住し、同志社英学校へ入学したのは、薩摩藩邸跡に新校舎が完成した直後のことだった。

同志社英学校の新校舎が完成したものの、生徒不足で行き先が不安だったが、熊本洋学校から熊本バントが転校してきたことにより、多少、学校が賑やかになった。

■熊本バンドの不満
同志社英学校に入学した熊本バンドは、開校したばかりの同志社英学校に失望していた。

同志社英学校は校舎が2棟しかなく、熊本洋学校から編入した者以外のほとんどの生徒は、浮浪の生徒だった。それに、教師のレベルも低かった。

宣教師ディビスは日本語で授業を行っていたが、誤訳が多かった。既にL.L.ジェーンズから英語で授業を受けていた熊本バントにとっては、聞くに堪えないレベルの授業だった。

新島襄の授業も酷かった。新島襄は四福音書(聖書の関連本)の授業を担当していたが、新島襄の聖書の研究は未熟で、生徒の質問にも満足に答えることが出来ず、困り果てることが多かった。

新島襄は教師としてはレベルが低いため、熊本バンドの1人・浮田和民は、新島襄について「学者の師としては先生を信じていなかった」と評価している。

また、L.L.ジェーンズは陸軍出身で規律を重んじる教育方針だったが、新島襄は自由を重んじる教育方針だった。2つは相反する教育方針だったため、熊本バンドには同志社の校風が合わなかった。

熊本バンドは熊本洋学校時代、教師L.L.ジェーンズから英語で高度な教育を受けていた熊本バンドにとっては、同志社英学校の全てが不満だったのだ。

このころ、熊本洋学校を解雇された教師L.L.ジェーンズは、大阪にある大阪洋学校で教師をしていた。

そこで、熊本バンドは次元の低い同志社英学校を辞めて、東京へ向かうため、大阪の大阪洋学校で教師をしているL.L.ジェーンズに相談した。

すると、L.L.ジェーンズは「新島襄を信じて紹介したのだ。学校を紹介したのでは無い。旅費は払うから故郷へ帰れ」と激怒した。

そして、L.L.ジェーンズは熊本バンドに「生徒には意見を言う権利がある。まずは校長の新島襄に改革案を提示しなさい」と諭した。

このため、熊本バンドは同志社英学校へ戻ると、校長の新島襄に改革案を提示した。

すると、新島襄は熊本バンドの提案を絶賛して採用した。学生の意見など聞き入れられないと思っていた熊本バンドは、新島襄の度量の大きさに感服し、同志社英学校に残ることにした。

一方、新島襄は熊本バンドのためにL.L.ジェーンズを同志社英学校の教師として迎え入れようとしたのだが、L.L.ジェーンズはアメリカン・ボードの宣教師では無かったため、一部の宣教師の反対にあい、断念した。

L.L.ジェーンズも本国に一時帰国した際に、妻から離婚訴訟を起こされ、同志社へ行くことが出来なくなっていた。

実話「新島八重の桜」の京都編「烈婦!新島八重の悪妻列伝!新島襄も嫌われていたのあらすじとネタバレ」へ続く。

コメント欄

熊本は私の故郷で、花岡山は生家の裏山で子供時代の遊び場でした。熊本バンドの碑があるのは知っていましたが、その意味は深くは知らず、今回の八重の桜で久し振りに熊本バンドの事を聞き、その意味を知ることが出来ました。

  • 投稿者-
  • てっちゃん