新島八重は薩摩の生徒が嫌いだった!カルタ大会の冷遇
NHKの大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる山本八重(新島八重)の生涯をあらじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島八重は嫌いな薩摩出身の生徒を冷遇した」です。
このページは「烈婦!新島八重の悪妻列伝!新島襄も嫌われていたのあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■新島八重は薩摩の人間が嫌い
同志社英学校の学生が新島八重(山本八重)を「鵺(ぬえ)」と呼んで嫌っていたが、新島八重も薩摩(鹿児島県)出身の生徒が嫌いだった。
新島八重が薩摩出身の生徒を嫌った理由は不明だが、新島八重は会津出身だったため、戊辰戦争(会津戦争)で遺恨のある薩摩を嫌っていたされている。
■薩摩嫌いの新島八重
新島八重は、同志社英学校の学生を自宅に招き、料理をご馳走したり、正月には恒例のカルタ大会を開いたりしていた。
ただ、山本八重が自宅に招くのは会津出身の生徒・望月興三朗らが中心で、薩摩出身以外の生徒は招くことはあっても、薩摩出身の生徒を自宅に招くことは無かった。新島八重は会津出身の生徒を優遇し、薩摩出身の生徒を冷遇していたのである。
新島八重が信頼していたのは会津藩出身の学生だった。山本八重が旅行などで自宅を開けるとき、新島家の留守番を頼んだでいたのは会津藩出身の学生・鈴木彦馬らだった。
新島襄は同志社英学校の校長という立場上、この問題については非常に苦慮していたのだが、新島八重は非常に強情な性格で、新島襄が諭しても聞き入れないため、新島襄も困っていた。
後に新島八重は兄の山本家で「一寸むつかしい事」が起きたとき、「臭い物に蓋をしては行けない」と言い、兄妻・山本時栄(旧姓は小田時栄)を追求し、兄・山本覚馬と離婚させて、山本家から追い出したほど強情なのだ。
新島襄は新島八重の強情さについて、「お前の強情さはかねがね兄さん(山本覚馬)や槇村さんから聞いてはいたが、こんなに酷いとは思わなかった。私はとんだしもうたことをしてしもた」と述べている。
新島襄は新島八重に「武士の心ばかりにては足らず、真の信者の心をもって、主と共に日々、御歩みください」と説いても、新島八重は兄嫁を追い出すほど強情なので、新島八重の薩摩嫌いは治らなかった。
ただ、新島襄は結婚相手について「亭主が『東へ向け』と命令すれば、3年でも東に向いている東洋風の婦人は御免です」と言ってるので、新島襄にとって忠告を聞かない新島八重は理想の妻なのである。
ところが、あるとき、新島八重が薩摩出身の生徒を自宅に招き、そのことを群馬県で療養している新島襄に手紙で報告したのである。
群馬県で新島八重の手紙を読んだ新島襄は、新島八重と薩摩との和解を大変喜んで、胸をなで下ろしたのであった。
新島襄の看護をしていた看護婦「不破ゆう」は、この時の様子を「婦人は会津御出身であられた為め、薩摩の人々と何うも和解さられませんでしたが、到々或る機会に鹿児島人を招んで、かるた会をせられたと云う便りが来たので、『全ての人を愛せよ』と云う教えを絶えず実行して居られる先生は、この和解を大変喜んで居られたのでありました」と回顧している。
■新島八重と板カルタ
なお、新島八重が新島家で使っていたカルタは、下の句を読み上げて、上の句のカルタを取る「板カルタ」という特殊なカルタだった。
この板カルタが会津では流行していたらしく、新島八重は板カルタが得意だったため、会津出身の生徒を招いて、カルタ大会を開いていた。生徒が5人かかりでも新島八重には勝てなかったという。
実話「新島八重の桜」の京都編「同志社は倒産寸前のあらすじとネタバレ」へ続く。