同志社は倒産寸前

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「同志社は倒産寸前のあらすじとネタバレ」です。

このページは「新島八重は薩摩の生徒が嫌いだった!カルタ大会の冷遇のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島邸が完成
1878年(明治11年)9月7日、京都府京都市上京区寺町丸太町上ル松蔭町に新居(新島邸)が完成する。

新島邸が建てられた場所は、同志社英学校を設立した当初に仮校舎として借りていた高松保実の中井屋敷があった場所である。

同志社英学校が新校舎へ移転後、新島襄が中井屋敷を買い取り、ボストンの友人J.M.シアーズの寄付により、新島邸が建てられた。

新島邸は、新島襄が宣教師テイラーのアドバイスを受けながら、新島襄が設計したとされているが、真偽は不明である。

■新居での生活
新島邸が完成すると、新鳥丸頭町の借家(岩橋邸)から新島邸へと引っ越した。新島邸は同志社英学校の近くにあり、学校がある日でも新島襄は昼になると自宅に帰り、妻の新島八重と一緒に昼食をとった。

新島襄は、用事で帰宅できない時は自宅まで使いの者を送り、妻の新島八重を待ち惚けさせないように気をつかっていた。

1000坪の敷地内には畑もあり、新島襄は農民の真似事もしていたが、新島八重は畑仕事をしなかった。

そこで、新島襄は農業に興味を示さない新島八重を「会津の人も青森で百姓をしているじゃないですか」と諭したが、その後、新島八重が畑を耕したかどうかは分からない。

なお、新島襄は既に安中(群馬県)から京都へ戸籍を移しており、その際に士分から平民になっている。

■同志社英学校に廃校の危機
同志社英学校は3学期制で、9月に新学期が始まり、翌年6月に学期が終わっていた。このため、6月から9月までの3ヶ月間は夏休みだった。

在日宣教師は夏休みは働かず、避暑のため、比叡山で過ごした。新島襄は夏休みを利用して避暑に出かけたり、地方へ伝導に出かけたりしていた。

1879年(明治12年)6月、新島襄は夏休みを利用して、尾崎弘道と鹿児島県を訪れて伝導していたとき、沢山の電報が届いた。

電報は、同志社英学校の倒産を知らせる内容だった。電報を読んだ新島襄は急いで京都へ戻ることにした。

■黒幕は外務卿の寺島宗則
当時は外国人が日本人を雇用することは禁止されていた。しかし、日本人の名義で店を開き、日本人を雇用する、ずる賢い外国人商人が増えていた。

これを問題視した外務卿(外務大臣)の寺島宗則は、ずる賢い外国人を厳しく取り締まり始めていた。

同志社英学校は生徒数が少ないため、学費では運営することが出来ず、アメリカの宗教団体「アメリカン・ボード」からの支援で運営されていた。

このため、外務卿(外務大臣)の寺島宗則は同志社英学校を「外国人が開設した学校」とみて、マークしていた。

外務卿(外務大臣)の寺島宗則は表だって動いていなかったが、京都府に同志社英学校の視察を行わせていため、同志社英学校は度々、京都府の視察を受けていた。

1879年(明治12年)6月にも同志社英学校に京都府の視察が入った。同志社英学校は6月に学年が終わり、9月に新学期が始まるので、同志社英学校に視察が入ったの夏休みに入る直前だった。

このとき、宣教師が教室で聖書を教えているところが見つかってしまい、新島襄は弁明に奔走していた。

その後、新島襄は弁明を終えて同志社英学校が夏休みに入ると、九州へ伝導の旅に出た。

その隙に、外務卿(外務大臣)の寺島宗則は、同志社英学校は外国人が設立した学校だとして、同志社英学校を倒産へ追い込むために実力行使に出たのである。

鹿児島県で布教活動をしていた新島襄は電報で同志社倒産の危機をしると急いで帰京し、日本政府に居る森有礼(アメリカで新島襄に留学免許状やパスポートを発行した人)を頼った。

その結果、森有礼の仲介により、外務卿(外務大臣)の寺島宗則は一端、矛を収めたため、同志社英学校が倒産する危機は免れた。

ただ、森有礼も新島襄に「アメリカン・ボードから資金援助を受けている限り、同じ問題が起こるだろう」と忠告しており、根本的な解決には至らなかった。

この後、新島襄はアメリカのハーディー夫婦に手紙を送り、同志社英学校を自立させるたに、「アメリカン・ボードの基金を融通して欲しい」と頼んだのであった。

実話「山本八重の桜」の京都編「新島襄が新島八重のハイヒールを切ったあらすじとネタバレ」へ続く。