漫画「大奥」の玉栄(お玉の方)のモデルは桂昌院

よしながふみの漫画「大奥」に登場する玉栄(お玉)の実在するモデルをネタバレするページです。

■玉栄(ぎょくえい)のあらじ
漫画「大奥」に登場する玉栄(ぎょくえい)は、万里小路有功に同行して江戸城を訪れる。万里小路有功は春日局に脅迫されて大奥に入る事になったため、玉栄も万里小路有功に付いて大奥に入る。

万里小路有功は3代将軍・徳川家光(女性)に寵愛されたが、子供が出来なかったため、玉栄に子作りを依頼する。

側室となった玉栄は「お玉の方」と呼ばれるようになり、3代将軍・徳川家光との間に子供を作ることに成功した。この時に生まれた娘・徳子が後に5代将軍・徳川綱吉となる。

■玉栄のモデルは桂昌院(お玉)
玉栄のモデルとなる「お玉」は、1627年(寛永4年)に京都堀川通り西藪町の八百屋仁右衛門の次女として生まれた。母親は京都でも目を引くほどの美人で、お玉も相当の美人だったという。

父・仁右衛門の死後、母は二条家の家臣・本条宗利と再婚し、お玉は本条宗利の養女となる。

二条家は、3代将軍・徳川家光の側室「お万の方」に縁があったため、「お玉」は13歳のとき、「お万の方」の侍女として大奥へ入る。

大奥に入った「お玉」は、春日局に認められて側衆に抜擢される。やがて、3代将軍・徳川家光に見初められて側室となり、「お玉の方」と呼ばれるようになる。そして、徳川家光の寵愛を受け、20歳の時に男児・徳松を出産する。

1651年4月、3代将軍・徳川家光が死去すると、11歳の長男・徳川家綱が4代将軍に就任する。

徳川家光には、長男・家綱(11歳)、3男・綱重(8歳)、4男・徳松(6歳)が居たが、次男と5男は早死にしており、3男・4男は若かったため、継承問題には発展せず、長男・家綱が4代将軍に就任した。

お玉の方(26歳)は、3代将軍・徳川家光の切っ掛けに出家して尼となり、名を「桂昌院(けいしょういん)」と改め、大奥を離れた。

一方、息子・徳松は元服して「綱吉」へと名を改め、1661年に徳松(18歳)は上野国館林藩の藩主となる。

1687年に兄の綱重が死去し、1689年には4代将軍・徳川家綱が世継ぎを残さないまま死去したため、綱吉が5代将軍に就任することになった。

桂昌院(57歳)は綱吉と共に江戸城へ戻り、「三の丸」へ入った。このため、桂昌院は「三の丸様」と呼ばれるようになり、将軍の母として大奥で権力を握った。

桂昌院は、1702年に女性では最高位にあたる「従一位」の官位に任命された。そして、1705年に79歳で死亡した。

■桂昌院(お玉)の政策と評価
桂昌院(お玉)は、策謀を巡らすこと無く、運だけで八百屋の娘から将軍の母まで上り詰めたため、神仏に対する信仰心が強かった。

このため、殺生を禁じる「生類憐れみの令」を制定したり、戦で焼き払われた神社仏閣の再建事業などに力を注いだ。

桂昌院(お玉)は八百屋の娘から「将軍の母親」そして、女性では最高位の「従一位」まで上り詰めたが、豊臣秀吉のように立身出世として評価されることはなく、桂昌院(お玉)の一般的な評価は低い。

ただ、神社仏閣の再建事業などについては、公共事業の効果があり、経済の発展に役立ったとされている。

また、大奥に入った「お玉の方」は八百屋出身であることに引け目を感じており、学問に励んだ。息子・徳松も母「お玉の方」の影響を受けて学問に励んだが、学問一辺倒になってしまった。

■玉の輿の語源
お玉は、八百屋の娘から、女性では最高位の「従一位」まで上り詰めことから、「玉の輿」の語源になった、という説がある。

よしながふみの漫画「大奥」の登場人物のネタバレ一覧は『よしながふみ「大奥」で実在するモデルのまとめ』をご覧ください。

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