実話-新島襄の「自責の杖」事件
NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄の『自責の杖』のあらすじとネタバレ」です。
このページは「実話-新島襄の短気だった!新島八重を襲う女今川の悲劇のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■新島襄の「自責の杖」事件
1880年(明治13年)4月13日、いつものように新島襄は、妻の新島八重をエスコートして人力車に乗せた後、人力車に乗り込んだ。
でっぷりとした新島八重のおかげで、人力車の座席は狭い。人力車が走り出すと、新島八重の巨漢が揺れ、新島襄の体を圧迫する。思わず、新島襄は「痛い」と悲鳴を上げた。
どうなさったの?新島八重は自分の巨漢など何も関係ないかのように尋ねると、新島襄は腫れ上がった左手の甲を見せ、今朝、同志社英学校であった出来事を話し始めた。
■徳富健次郎(徳冨蘆花)の入学
同志社英学校の新学期は9月から始まるが、途中入学が認められており、正規入学生の上級組と途中入学生の下級組とに別れていた。
熊本県に住む11歳の少年・徳富健次郎(徳冨蘆花)は、春休みに帰宅した兄・徳富猪一郎(徳富蘇峰)の誘いで同志社英学校に入学するため、同年夏に京都を訪れる。
同志社英学校は、希望者は誰でも入れるわけではなく、入学試験があった。同時の入学試験は、試験当日に書物を渡され、受験者はそれを音読して、試験官の質問に口答で答える、というものであった。
徳富健次郎(徳冨蘆花)は入学試験に落ちたが、新島襄は特に目をかけている生徒・徳富猪一郎(徳富蘇峰)の弟だったため、特例で1年生の下級組へ入学させた。
こうして、徳富健次郎(徳冨蘆花)は1878年(明治11年)に1年生の下級組に入学したが、1年生の終わりに試験を通って上級組へと編入した。
同志社英学校で事件が起きたのは、徳富健次郎(徳冨蘆花)が2年生の時であった。
■同志社の集団欠席事件
1880年(明治13年)3月、徳富健次郎(徳冨蘆花)が在席する2年生は生徒が少ないため、在日宣教師は不経済を理由に2年生の上級組と下級組とを合併させることを提案した。
同志社英学校は教師会が運営していたが、同志社英学校はアメリカの宗教団体「アメリカン・ボード」からの寄付で設立・運営されているため、実質的には在日宣教師が同志社英学校を運営しているようなものだった。
1880年(明治13年)4月、新島襄が愛媛へ宣教活動に出ている間に、在日宣教師が2年生の上級組と下級組との合併を決定してしまう。
この問題について、5年生の兄・徳富猪一郎(徳富蘇峰)が2年生上級組にストライキを扇動したため、2年生上級組の弟・徳富健次郎(徳冨蘆花)らが集団欠席をして授業をボイコットする事態に発展するのである。
■秘密結社「同心交社」
1876年(明治9年)9月ごろ、同志社英学校が仮校舎から新校舎へ移転して間もなく、キリスト教に目覚めて故郷を追われた熊本洋学校の生徒が、同志社英学校へ入学した。この生徒らが俗に言う「熊本バンド」である。
熊本洋学校の教師L.L.ジェーンズから依頼を受けた新島襄は、同志社英学校に「神学課(余科=バイブル・クラス)」を設置して、故郷を追われた熊本バンドを受け入れた。
進んだ教育を受けていた熊本バンドによる神学課(バイブル・クラス)は上級生になるにつれ、教師を軽んじて同志社英学校を牛耳り始めた。そして、下級生は教育方針の違いから神学課に反発するようになっていた。
上級生の神学課(バイブル・クラス)は、同志社英学校を神学や伝道を学ぶ学校だと主張して、同志社英学校を牛耳り、校長の新島襄をも批判していた。
一方、下級生は同志社英学校を様々な学問を学ぶ学校だと主張し、教育方針を巡って神学課(バイブル・クラス)と対立していた。
そこで、同志社英学校が神学課(バイブル・クラス)に牛耳られていることに強い不満を持っていた下級生の徳富猪一郎(徳富蘇峰)は、大久保真次郎・河辺久治らと共に秘密結社「同心交社(どうしんこうしゃ)」を結成した。
こうして、同志社英学校に、神学課(バイブル・クラス)に対抗する勢力として秘密結社「同心交社(どうしんこうしゃ)」が誕生したのである。
■自責の杖の黒幕は秘密結社「同心交社」
秘密結社「同心交社」は神学課(バイブル・クラス)の対抗するために結成されたが、やがて、神学課(バイブル・クラス)の熊本バンドが卒業して同志社から敵対勢力は消滅した。
このため、リーダー徳富猪一郎(徳富蘇峰)は、秘密結社「同心交社」を解散した。
2年生の上級組と下級組との合併問題が起きたのは、秘密結社「同心交社」が解散した後のことだった。
上級組と下級組との合併問題に反対する2年生の上級組は、日本人教師・市原盛宏ら3人に抗議を始めた。この日本人教師・市原盛宏ら3人は神学課(バイブル・クラス)の出身者であった。
(注釈:市原盛宏は後に、横浜市長や第一銀行韓国支店の総支配人を経て、朝鮮銀行の初代総裁を務める人物である。)
徳富猪一郎(徳富蘇峰)は秘密結社「同心交社」を表向きには解散させたが、神学課(バイブル・クラス)の卒業生が教師として同志社英学校に残っていたため、秘密結社「同心交社」は密かに存続していた。
そこで、秘密結社「同心交社」のリーダーで5年生の徳富猪一郎(徳富蘇峰)が、日本人教師・市原盛宏に抗議する2年生の上級組に荷担した。この結果、2年生の上級組は集団欠席してストライキを起こしたのである。
■新島襄との対決
1880年(明治13年)4月、校長の新島襄が愛媛県での布教活動から戻ってくると、宣教師が上級組と下級組との合併を決定しており、2年生の上級組が騒ぎを起こしていた。
1880年(明治13年)4月7日、クラスの合併に反対する2年生の上級組は、新学期が始まると、校長・新島襄に「御伺書」を突き付けた。
御伺書には、徳富健次郎(徳冨蘆花)ら9人の署名があった。その中には、義理の甥(養子)・新島公義や津田元親の名前もあった。
(注釈:新島公義は、弟・新島双六の家督を継がせるために新島家が招いた養子で、新島襄にとっては義理の甥である。新島襄の養子ではない。)
御伺書には、新島襄が目をかけていた徳富健次郎(徳冨蘆花)や新島公義や津田元親の名前が連なっている。
さらに、新島襄が特に目をかけていた5年生の徳富猪一郎(徳富蘇峰)がストライキを扇動していた。これは、もはや、謀反であった。
2年生上級組は御伺書で、新島襄に「正則の上級組としては、試験を行わずに変則の下級組を合併することは認められない。学校が対応してくれるまでは学校には行かない」と抗議した。
新島襄は上級組の説得に当たるが、上級組は納得せず、さらに新島襄に嘆願書を突き付けた。上級生の嘆願で「試験を行って、上級組と下級組を分離せよ」と求めたのであった。
実話「新島八重の桜」の京都編『実話-新島襄の「自責の杖事件」の黒幕は秘密結社「同心交社」のあらすじとネタバレ』へ続く。