新島襄の「自責の杖事件」の黒幕は秘密結社「同心交社」

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄の『自責の杖』の黒幕は秘密結社『同心交社』のあらすじとネタバレ」です。

このページは『実話-新島襄の「自責の杖」事件のあらすじとネタバレ』からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■クラス合併の理由
2年生の上級組が納得できない事も理解できるが、新島襄にも上級組と下級組とを合併せざるを得ない理由があった。

当時は外国人が日本人を雇用することが禁じられていたが、外国人が日本人の名義で店を出し、日本人を雇用する名義偽装事件が増えていた。

このため、外務卿(外務大臣)の寺島宗則が名義偽装を厳しく取り締まり始めていた。

同志社英学校はアメリカの宗教団体「アメリカン・ボード」からの寄付によって設立・運営されており、外務卿(外務大臣)の寺島宗則が同志社英学校をアメリカ人が設立した学校として敵視していた。

1879年(明治12年)6月には外務卿(外務大臣)の寺島宗則が実力行使に出て、同志社英学校は廃校の危機が訪れた。

この時は森有礼の仲介により、同志社英学校の廃校は免れたものの、同志社英学校は宗教団体「アメリカン・ボード」から金銭的に独立しなければ、次は廃校に追い込まれることは目に見えていた。

2年生の上級組と下級組とを合併するのは経費削減の一環で、同志社英学校を存続させるためには、やむを得ない措置だった。

新島襄は上級組の嘆願書に対して、「やむを得ない措置である。嘆願は聞き入れられない」と回答したため、2年上級組は新島襄の説得を無視して集団欠席による抗議を断行した。

■上原方立の糾弾
1880年(明治13年)4月11日、新島襄にさらなる問題が持ち上がる。4年生の上原方立が、「2年生上級組の集団欠席は、無届けなので校則違反だ」と言い、新島襄に2年生上級組への処分を求めたのである。上原方立の指摘は正論であった。

困った新島襄は、2年生上級組を扇動している黒幕の徳富猪一郎(徳富蘇峰)に頼み、2年生上級組を新島家に集めるように頼んだ。

徳富猪一郎(徳富蘇峰)は新島襄と対立することが目的ではないため、これに応じて集団欠席している2年生上級組を新島邸へ集めた。

集団欠席している2年生上級組が新島家に集まると、新島襄は涙ながらに説得した。この結果、2年生上級組は嗚咽に言葉を詰まらせながら集団欠席を謝罪し、授業に出席することを約束した。

こうして、2年生上級組による集団欠席は解決したが、2年生上級組の集団欠席に対する校則違反を追及する4年生の上原方立の問題が残っていた。

確かに、4年生の上原方立が言うように、無届けでの欠席は校則違反であったが、新島襄の必死の説得により、2年生上級組はようやく出席を約束してくれたばかりだ。

ここで2年生上級組を処分すれば、再び2年生上級組は集団欠席を始めるに違いない。

この問題は新島襄を苦しめた。新島襄は、「生徒たちが理解してくれないのは、自分の徳が足りないからだ」と悩み、同志社学校を捨てて北海道で農業を始めようと考えるようにまでなっていた。

■新島襄の自責の杖
1880年(明治13年)4月13日の朝、同志社英学校の第2寮の大教室(礼拝堂として利用していた)で、朝拝が行われる。朝拝での説法は教師が順番に担当しており、この日は新島襄が希望して説法を行った。

新島襄は1本の杖を持ち、壇上に上り、いつものように説法をする。そして、説法を終えると、新島襄は「吉野山、花待つころの、朝な朝な、心にかかる、峰の白雲」という和歌を引用して、2年生の上級組・下級組の合併問題について話し始めた。

新島襄は「彼らの過ちは、校長たる私の不行き届きと不徳の結果である。どうして、彼らを罰することができようか。しかし。同志社の規則は厳然たるものである。よって、自ら校長を罰す」と言い、右手に持った杖で、何度も左手を打ち付け始めた。

生徒は新島襄の奇行に呆気にとられていたが、新島襄は何度も杖で左手を打ち付け、左手が腫れ上がる。

やがて、左手を打ち付けていた杖が2つに折れ、3つに折れると、2年生上級組の校則違反を追及していた4年生の上原方立が真っ先に新島襄の元に駆け寄り、涙ながらに自責の中止を訴えた。

新島襄は大教室(礼拝堂)に集まった生徒に、「諸君、同志社英学校の規則を重んじる事を理解してくれましたか。この件について再び議論を起こさないと約束できるなら、これで終わります」と問いかけた。

大教室(礼拝堂)に集まった生徒は新島襄の自責にむせび泣き、2年生上級組の校則違反を追及しようとする者は現れなかった。

こうして、新島襄を悩ませたクラス合併問題にともなう集団欠席事件は解決したのであった。

ただ、外国人宣教師は、生徒に処分を下さずに事件を有耶無耶に終わらせた新島襄の茶番劇を冷ややかに見ていた。

一方、集団欠席に加わっていた2年生上級組の徳富健次郎(徳冨蘆花)は、大教室(礼拝堂)の朝拝には出席しておらず、寮の自室で布団に寝転がって小説「南総里見八犬伝」を読んでいた。

■新島襄の自責と秘密結社「同心交社」
2年生上級組を扇動した黒幕の徳富猪一郎(徳富蘇峰)は、「自責の杖」事件から4日後の1880年(明治13年)4月17日に同志社英学校の寮を去り、同年5月24日に退学届を提出した。

卒業まで1ヶ月しか残っていない時期での退学届だったため、新島襄は必死に引き留めたが、徳富猪一郎(徳富蘇峰)は聞き入れずに同志社英学校を退学をした。

自責の杖の後に同志社英学校を退学したのは、徳富猪一郎(徳富蘇峰)・河辺久治・湯浅吉郎の3人であった。

同志社英学校を退学する徳富猪一郎(徳富蘇峰)・河辺久治・湯浅吉郎の3人は、秘密結社「同心交社」を組織した主要メンバーだった。自責の杖事件を引き起こした黒幕は秘密結社「同心交社」だったのである。

退学届を出した日の翌日(1880年5月25日)、徳富猪一郎(徳富蘇峰)ら3人は、東京へ出発する前に新島襄の自宅に集まった。

このとき、お金の無い徳富猪一郎(徳富蘇峰)は、新島襄に旅費の融通を頼んだが、新島襄は「むしが良すぎる」として借用を拒否した。

しかし、新島襄は、義理の甥・新島公義に徳富猪一郎(徳富蘇峰)ら3人を駅まで送らせ、新島公義を通じて徳富猪一郎(徳富蘇峰)に旅費を融通してやった(食事代を払ったという説もある)。

一方、御伺書・嘆願書に署名して2年生上級組の集団欠席となった生徒らも、「自責の杖」の後、退学届を提出した。

御伺書・嘆願書に署名した義理の甥・新島公義も退学届を提出したが、新島襄は「学校に来るのが嫌なら、家に引っ込んでおれ」と激怒して、退学届は受理しなかった。

御伺書・嘆願書に署名した津田元親も退学届を提出したが、津田元親は津田仙の息子で、新島襄は親友の津田仙から津田元親を預かっていたため、津田元親の退学届を受け付けなかった。

(注釈:津田仙は新島襄と並ぶ有名なキリスト教徒で、女性教育家・津田梅子の父親である。)

結局、自責の杖の後、同志社英学校を退学したのは、秘密結社「同心交社」の主要メンバー徳富猪一郎(徳富蘇峰)・河辺久治・湯浅吉郎の3人だけであった。

ただ、徳富猪一郎(徳富蘇峰)と共に東京へ行った湯浅吉郎は、兄に追い返されて、同志社英学校に復学している。

他方、「自責の杖」が起きた朝拝に出席しなかった2年生上級組の徳富健次郎(徳冨蘆花)は、同志社英学校に残っていたが、「自責の杖」が起こった翌月に同志社英学校を退学してしまった。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島八重と同志社女子塾のあらすじとネタバレ」へ続く。