吉野山、花待つころの、朝な朝な、心にかかる、峰の白雲

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の関連情報「新島襄が好んだ和歌」編です。

■新島襄が好んだ和歌
同志社の設立者・新島襄は「吉野山、花待つころの、朝な朝な、心にかかる、峰の白雲」という和歌を好んで詠んだ。

この和歌は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した武士・佐川田昌俊(さがわだ・まさとし=佐川田喜六)の代表作である。

■佐川田昌俊とは
佐川田昌俊は上杉景勝に仕えた武士で、茶と和歌を好み、漢詩の直江兼続に対して、和歌の佐川田昌俊として並び称された。関ヶ原の合戦後は淀藩の永井尚政に仕えた。

■和歌の意味
佐川田昌俊の和歌「吉野山、花待つころの、朝な朝な、心にかかる、峰の白雲」の意味は、「吉野山に花が咲く頃になると、毎朝、毎朝、峰にかかる白雲のように、花のことが気になる」という意味である。

■新島襄と「吉野山、花待つころの、朝な朝な」の意味
新島襄は、佐川田昌俊の和歌「吉野山、花待つころの、朝な朝な、心にかかる、峰の白雲」を好み、同志社英学校で発生したストライキ「自責の杖事件」の時にこの詩を詠んだ。

新島襄は「私はいつも同志社や生徒達のことを思っている」という意味を込めて、佐川田昌俊の和歌「吉野山、花待つころの、朝な朝な、心にかかる、峰の白雲」を詠んでいた。かなり気に入っていたようである。

新島襄は病に倒れて神奈川県大磯町にある旅館「百足屋」で療養していた時もこの和歌を何度も詠んだ。新島襄は口述筆記で残した遺書にもこの和歌が2度書き残されている。

また、新島襄は死ぬ前に「天を怨みず、人を咎めず」という孔子の言葉を残した後、佐川田昌俊の和歌「吉野山、花待つころの、朝な朝な、心にかかる、峰の白雲」を詠んだ。

■補足
佐川田昌俊の和歌「吉野山、花待つころの、朝な朝な、心にかかる、峰の白雲」は江戸時代に大流行し、様々な本に掲載されたため「よし野山、はなまつ頃の、朝な朝な、心にかかる、みねのしら雲」など表記が異なる場合もある。

新島八重や新島襄に関する情報は、「実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ」をご覧ください。