山本佐久と同志社-宣教師スタークウェザーの真相

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「山本佐久と同志社-宣教師スタークウェザーの真相のあらすじとネタバレ」です。

このページは「新島八重と同志社のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■日本人と在日宣教師の対立
同志社女学校は、アメリカの宗教団体「アメリカン・ボード」の寄付によって開校・運営されていた。

日本人に雇われなければ、外国人は内陸部に住めないため、名義上の開校者は新島襄になっていたが、在日宣教師は同志社女学校をアメリカン・ボードの学校だと考えていた。

このため、在日宣教師は同志社女学校を完全に支配しようとしたが、そこに新島八重と母・山本佐久が立ちはだかり、女性宣教師スタークウェザーと激しいバトルを繰り広げていた。

そこで、在日宣教師は女性宣教師スタークウェザーを帰国させ、交代要員として宣教師フーパーを呼び寄せて、同志社女学校を仕切り直すことを決定した。

この結果、1883年(明治16年)5月に女性宣教師スタークウェザーは帰国し、対立していた母・山本佐久もその後、舎監を辞めた。しかし、在日宣教師と日本人教師との対立は解決しなかった。

■同志社女学校の明治18年事件
新島襄が開校した同志社英学校は、アメリカの宗教団体「アメリカン・ボード」の寄付により開校・運営されていたため、「アメリカ人が設立した学校」として外務卿(外務大臣)の寺島宗則に睨まれていた。

同志社女学校も名義上は新島襄が開校したことになっているため、同志社英学校と同様に外務卿(外務大臣)の寺島宗則に睨まれていた。

外国人宣教師を雇い入れるためには、明治政府の許可が必要なのだが、外務卿(外務大臣)の寺島宗則が許可しないため、同志社女学校は新たな宣教師を雇う事が出来ず、慢性的な教師不足に陥っていた。

そこで、同志社英学校の男子生徒が、同志社女学校の教師を務めるようになったのだが、男子生徒は同志社女学校の教育方針や規則にまで口を出すようになっていた。

同志社女学校は、名義上の開校者・校長は新島襄になっていた。しかし、実質的な開校者は宣教師デイビスであり、校長は女性宣教師スタークウェザーであった。

男尊女卑の根強い明治時代においては、女性が運営者・校長であることが受け入れられず、日本人教師や女子生徒は校長を新島襄と考えていた。

アメリカで10年間を過ごした新島襄でさえも、女性が校長(責任者)を務めることには反対しており、京都で女性の校長が受け入れられるはずはなかった、

このため、同志社女学校の日本人教師や女子生徒は、女性宣教師スタークウェザーの教育方針に対立した。

この問題に対して在日宣教師は、新島八重と母・山本佐久の親子と対立していた女性宣教師スタークウェザーを帰国させることにした。

そして、女性宣教師スタークウェザーの代理として宣教師フーパーを呼び寄せ、同志社女学校を再出発させたが、宣教師と日本人の対立関係は解消しなかった。

このため、1885年(明治18年)に在日宣教師は同志社女学校から撤退することを決め、新島襄に同志社女子校の閉鎖を通告したのである。

このとき、名義上の校長・新島襄は欧米の外遊に出ており不在だったため、日本人教師や女子生徒は山本覚馬に助けを求めた。

その結果、京都の大澤善助や中村栄助らの資金調達により、アメリカン・ボードから校舎を借り受ける形で、学校を再開することにができた。

しかし、日本人だけで女学校を運営するのは難しかった。外国人を雇おうにも当時は外国人を雇うにはもの凄い高給を支払わなければならないた。同志社女学校にそんなお金は無かった。

このため、同志社女学校はアメリカン・ボードの女性宣教師クラークソンに校長を依頼した。

こうして、日本人側が同志社女学校の運営費を負担し、宣教師を教師に招くという形で同志社女学校は再始動した。

その後も校長の依頼を受けてアメリカン・ボードの宣教師が同志社女学校で教鞭をとるのだが、日本人教師と宣教師との対立は改称せず、アメリカン・ボードの完全徹底に繋がるのである。

■アメリカン・ボードの撤退
同志社英学校も同志社女子校と同じようにアメリカン・ボードからの寄付金で開校・運営されており、同志社女子校で起きた日本人教師と外国人宣教師との対立は、同志社英学校でも起きていた。

新島襄はアンドーヴァー神学校を卒業してアメリカン・ボードから派遣された準宣教師だったため、新島襄が生きている間は新島襄が日本人教師と宣教師との間に入り潤滑油となっていた。

しかし、新島襄の死後は潤滑油の役割を担う人物が居なくなり、日本人教師と宣教師とは溝を深めた。

そして、同志社の2代目総長・小崎弘道がアメリカン・ボードからの寄付金を拒絶したことを切っ掛けに、1896年(明治29年)にアメリカン・ボードは同志社から撤退してしまうのであった。

実話「新島八重の桜」の京都編「新島襄の大好物は蕎麦だった!徳富猪一郎との蕎麦勝負のあらすじとネタバレ」へ続く。