山本覚馬と槇村正直の租税追徴事件
NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-山本覚馬と槇村正直の租税追徴事件」です。
このページは「山本佐久と同志社-宣教師スタークウェザーの真相のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■山本覚馬の解雇
1875年(明治8年)7月、京都府の大参事・槇村正直は、2代目の京都府知事に就き、名実ともに京都府のトップとなる。
槇村正直は京都府顧問の山本覚馬を右腕として辣腕を振るってきたが、新島襄が同志社女子塾を開塾た翌年の1877年(明治10年)12月、山本覚馬を京都府の顧問から解任した。
近代国家のあり方を示した意見所「山本覚馬建白(管見)」で女性への教育を挙げていた山本覚馬は、同志社女子塾を開設するために東奔西走していた。
その結果、山本覚馬は京都府庁の槇村正直との溝が深まり、同志社女子塾の開設と引き替えに京都府顧問を辞める形となってしまった。
■山本覚馬の出馬
山本覚馬は同志社女子塾の開設と引き替えに京都府の顧問を解任された形になったが、既に山本覚馬は京都で会社を興しており、生活には困らなかった。
山本覚馬が意見書「山本覚馬建白(管見)」で述べたことが、次々と現実のものとなり、禁門の変で燃えた京都が復興し、京都の産業も順調に成長していた。
山本覚馬が望みは京都府の発展であり、京都府顧問という地位に未練は無かった。
■京都府議会選挙
1878年(明治11年)7月、太政官布告の府県会規則が施行される。府県会規則は、府議会や県議会の設置や、それに伴う選挙について定めた法律である。
1879年(明治12年)3月24日、第1回京都府会選挙が行われる。選挙で選ばれるには15円以上の地租(固定資産税)を納めていなければならず、選挙権は地租5円以上の者にしか与えられていない制限付きの選挙ではあったが、京都での議会政治の始まりである。
山本覚馬は盲目であったが、毎日、妻の山本時栄(小田時栄)に新聞を音読させており、誰よりも政治経済に精通し、世界の事情にも明るかった。また、人脈も広く、人望も厚かった。
このため、山本覚馬は上京区で51票を取得し、第1回京都府会選挙に当選する。さらに、第1回京都府会で議長に選出され、盲目ながらも京都府会の初代議長を務めた。
目も足も不自由な山本覚馬は妻・山本時栄(小田時栄)に背負われて、議会に出た。妻の山本時栄は、いつも山本覚馬の目となり、足となっていた。
■山本覚馬と槇村正直の対決
1880年(明治13年)5月、税収が不足したため、京都府知事の槇村正直が独断で地租(固定資産税)の追徴を命じる(槇村正直の租税追徴事件)。
しかし、地税の決定権は京都府会にあるため、京都府会の議長・山本覚馬は槇村正直の行為を越権行為と認定し、槇村正直を糾弾した。
槇村正直は京都の産業復興に手腕を振るったやり手だったが、大参事時代にも小野組転籍事件を起こしたように、独裁的なところがあった。
(小野組転籍事件のあらすじは「実話-小野組転籍事件のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)
小野組転籍事件で逮捕された時は京都府顧問をしていた山本覚馬が助けてくれたが、今度はその山本覚馬が京都府会の議長として槇村正直の前に立ちはだかったのである。
京都府会議員は条件付きの選挙ではあるが、選挙で選ばれており、市民の代表だった。山本覚馬は民主政治のあり方を示すため、槇村正直の横暴を厳しく追及した。
しかし、槇村正直は老獪である。山本覚馬からの抗議を受けた槇村正直は、発令した追徴命令を取り下げ、京都府会に地租の追徴を提案するという方法で山本覚馬の追求を交わした。
元々、槇村正直は木戸孝允の右腕で、木戸孝允が京都府に送り込んだ人材だであり、政治手腕には長けていた。
一方、京都府会は出来たばかりで、議員も民主政治について良く理解しておらず、京都府会の権限もよく理解していないうえ、明治政府と太いパイプを持つ槇村正直に恐れをなしていた。
山本覚馬は槇村正直に怯える議員を叱咤して槇村正直と対決するが、議員は槇村正直の高圧的な態度に戦意を喪失してしまう。
そこで、槇村正直は強引に押し切り、地租(固定資産税)の追徴を可決させ、山本覚馬との対決には勝利したのである。
しかし、槇村正直の横暴は新聞で大きく報道され、全国から批判を受けた。
その結果、槇村正直は実権の無い元老院議官へと左遷されることになり、京都の近代化を推し進めてきた槇村正直は1881年1月に京都府を去った。
一方、山本覚馬は、票を投じない議員に退場を命じるなどして、若い議員に身をもって民主政治・議会政治のあり方を示すと、任期満了を待たずに1881年(明治14年)に議員を辞職した。
■北垣国道(きたがき・くにみち)の就任
1881年(明治14年)、2代目・京都府知事の槇村正直が元老院議官へ転出すると、後任として、高知県令(県知事)や徳島県令を勤めた北垣国道が3代目の京都府知事に就任する。
北垣国道はキリスト教にも理解を示し、山本覚馬とも良い関係を築き、新島襄らとも良い関係を築いた。山本覚馬や新島襄にとって、北垣国道の京都府知事の就任は追い風になった。
なお、北垣国道は、琵琶湖疎水建設や京都商工会議所の設置などで功績を挙げた京都府知事である。もちろん、その背後には山本覚馬の存在があったことは言うまでもない。
実話「新島八重の桜」の京都編「新島襄が同志社大学を明治専門学校へ変更した理由のあらすじとネタバレ」へ続く。