新島襄の大好物は蕎麦だった!徳富猪一郎との蕎麦勝負

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄の大好物は蕎麦だった!徳富猪一郎(徳富蘇峰)との蕎麦食い勝負」です。

このページは「山本佐久と同志社-宣教師スタークウェザーの真相」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島八重の安中・会津旅行
新島八重と新島襄の2人は、新婚旅行こそしていないが、避暑や伝導などを兼ねて方々に旅行しており、1882年(明治15年)7月には、2人の故郷である安中(群馬県)や会津(福島県)を訪れている。

■同志社の東北進出
東京遷都を切っ掛けに、経済や文化の中心は京都から東京へと移った。これにともない、学校も東京に集中していた。しかし、新島襄は地方にこそ教育が必要だと考えていた。

そこで、新島襄は、故郷の安中で地方教育の重要性を訴えるため、遊びに来ていた熊本バンドの徳富猪一郎(徳富蘇峰)や伊勢時雄らを誘って安中へ向かうことにした。

徳富猪一郎(徳富蘇峰)は同志社英学校の生徒時代にストライキを扇動して「新島襄の自責の杖事件」を引き起こした黒幕で、「自責の杖事件」同の後、志社英学校を退学した人物である。

(新島襄の自責の杖については『実話-新島襄の「自責の杖」事件』をご覧ください。)

この旅は東北に教育を広めるための、足がかりとなる拠点を見つけることが目的であり、名目上はキリスト教とは関係が無いが、新島襄にとってはキリスト教の布教は教育の布教とほぼ同じ意味である。

■新島襄の蕎麦の大食い勝負
1882年(明治15年)7月3日、新島襄は徳富猪一郎(徳富蘇峰)や伊勢時雄らとともに、安中(群馬県)を目指して京都を出発し、中山街道(木曾街道)を徒歩で進んだ。

1882年(明治15年)7月7日、蕎麦好きの新島襄は、道中に立ち寄った長野県の「寝覚めの床」で、徳富猪一郎(徳富蘇峰)と名物蕎麦の大食い対決をする。

新島襄は普段は洋食を食べ、酒よりも善哉をすする甘党だが、新島襄が最も大好きな食べ物は「蕎麦」である。蕎麦があれば病気も治るというほど、新島襄は蕎麦好きだった。

長野県の「寝覚めの床」で行われた蕎麦の大食い勝負については口外厳禁で行わており、正確な勝負の結果は分からないが、後に新島襄は新島八重に、新島襄が12杯を食べ、徳富猪一郎(徳富蘇峰)は11杯だった、と話している。

一方、徳富猪一郎(徳富蘇峰)は、徳富猪一郎が9杯半食べ、新島襄は9杯だったし、負けた新島襄が2人分の料金を払った、と書き残している。

蕎麦食い勝負の真相は分からないが、その後に軽井沢で蕎麦の大食い勝負をしたさい、大食い勝負をしてもお互いに利益が無いことを悟り、以降は蕎麦食い勝負を止め、普通に蕎麦を食べたのだという。

■新島八重の会津帰郷
1882年(明治15年)7月3日に京都を出た新島襄らは、道中に蕎麦食い競争をしながらも、安中を目指し、同年7月11日に安中(群馬県)に到着する。

1882年(明治15年)7月11日、先に安中を訪れていた新島八重が新島襄を出迎え、新島襄らと合流する。新島八重は海路で横浜に上陸し、一足先に安中へ入って新島襄の到着を待っていた。

新島襄は帰国後に何度か安中を訪れており、新島襄による伝道の結果、1878年(明治11年)に群馬県安中市に安中教会が設立されている。一方、新島八重が安中を訪れたのは今回が初めてである。

1882年(明治15年)7月15日、新島襄は、群馬県安中市で地方教育の重要性を訴えて演説をする。演説を要約すると、「地方こそ教育が必要だ。寄付を集めて学校を建てろ」という内容である。

この時の演説が切っ掛けと成り、後に群馬県に新島学園が設立されることになる。ただ、新島学園が開校するのは、新島襄が死んでから57年後の1947年(昭和22年)である。

そして、1週間ほど安中に滞在した新島襄らは、1882年(明治15年)7月17日に新島八重・伊勢時雄・「山本みね」を共なって会津へと向かった。

(注釈:伊勢時雄は熊本バンドのメンバーで、愛媛で伝道をした人物である。「山本みね」は山本覚馬の娘で、伊勢時雄と結婚していた。)

新島襄らは日光を観光した後、白河を通り、1882年(明治15年)7月27日に、新島八重の故郷である会津(福島県)へ入った。

新島襄が会津を訪れるのは初めてである。また、会津出身の新島八重にとっても結婚後で初めての帰郷となる。

新島襄は、新島八重と生活し、新島八重から故郷・会津の話を聞き、会津の人間は「スパルタ人」のような人種だと考えていた。

スパルタとは、古代ギリシャの軍事国家で、スパルタは独特の軍事教育システムを有していたことから「スパルタ教育」の語源となっている。

新島襄は会津で、若松城を見学し、会津戦争の生き残りから若松城籠城戦についての話を聞いた。新島襄が会津を訪れたとき、既に若松城は取り壊れていた。

明治政府は若松城を保存しようとしたが、若松城は籠城戦での破損が酷かったため、福島県側が若松城の取り壊しを上申し、1874年(明治7年)に若松城は取り壊された。

なお、この時の会津訪問が切っ掛けで、1891年(明治24年)に福島県で、東北への伝道の拠点となる会津若松教会が設立されることになる。

1882年(明治15年)8月1日、新島襄は伊勢時雄を伴って会津から山形県へ向かう。新島八重は、新島襄と別れて、会津に残った。

山形県に入った新島襄らは、1882年(明治15年)8月21日に甘粕三郎(あまかす・さぶろう)の自宅を訪れて、地物との風土などについて詳しく尋ねている。(注釈:「甘粕」については「甘糟」と表記する場合もある。)

2度の結婚を通じて子供を産まなかった新島八重は、新島襄の死後、甘粕初子(あまかす・はつこ)を養女として迎えている。新島襄が訪問した甘粕三郎は、養女となる甘粕初子の叔父(父親の弟)である。

なお、新島襄の山形県訪問は実らず、同志社の東北進出の拠点となる学校は、1886年(明治19年)10月21日に宮城県仙台市で「宮城英学校」として開校した。

実話「山本八重の桜」の京都編「実話-山本覚馬と槇村正直の租税追徴事件のあらすじとネタバレ」へ続く。