実話-新島襄がアルプスのサンゴタール峠で心臓麻痺

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄がサンゴタール峠で心臓麻痺を」です。

このページは「新島襄が同志社大学を明治専門学校へ変更した理由のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島襄の欧米外遊
京都府知事・北垣国道の協力などにもより、明治専門学校(同志社大学)設立の賛同者は増えてきたが、大学の設立となると多額の資金が必要だった。

新島襄は徴兵猶予の嘆願や大学設立の資金集めに奔走していたが、隊長を崩してしまう。このため、宣教師は新島襄に休養を進めた。

1884年(明治17年)4月6日、新島襄は、宣教師の勧めで休暇を取り、海外旅行へ出る。今回の欧米外遊は静養するためであったが、アメリカで同志社大学の設立資金を集めることが最大の目的であった。

1884年(明治17年)5月、新島襄と山本覚馬が「明治専門学校設立趣旨」を発表する。

新島襄は、当初は「同志社大学」を設立する予定だったが、資金集めのためにキリスト教色の強い「同志社」を止めて、「明治専門学校」へと名称を変更していた。

新島襄の外遊中、義理の甥(養子)の新島公義が新島襄の代理として明治専門学校の設立に向けて東奔西走した。しかし、新島襄の不在により、大学設立運動は下火になっていった。

一方、欧米外遊に出た新島襄は、イタリアに2ヶ月近く滞在した後、スイスに入る。

■新島襄の心臓発作
1884年(明治17年)8月6日、スイスに滞在する新島襄は、現地で知り合ったドイツ人と一緒にアルプスのサンゴタール峠へ向かった。

しかし、新島襄は途中で呼吸が苦しくなり、進めなくなってしまった。新島襄はドイツ人と別れてそこに残り、呼吸困難で苦しみながらも、サンゴタール峠のホテルへとたどり着いた。

ホテルに着いた新島襄は医者を頼んだが、この村には医者は居ないということであった。新島襄はホテルの1室で休んでいたが、さらに体調が悪化したため、死を覚悟して遺書を残した。そして、眠りについた。

翌朝、新島襄が目覚める。そこは、天国でも極楽浄土でもなく、泊まったホテルの1室であった。新島襄は九死に一生を得ていた。

体調は回復していなかったが、新島襄は馬車を呼んでで元のホテルまで戻り、翌日、医者の居る町まで行き、医者の診察を受けた。医者の診断によると、新島襄は心臓に問題があるということでった。

■第2の故郷アメリカ
1884年(明治17年)9月30日、体調が回復した新島襄は旅行を続け、イタリア・スイス・ドイツ・イギリスを経由して、10年ぶりにアメリカ・ボストンの地を踏み、アメリカの母と敬愛するハーディー夫妻と再開を果たす。

■新島襄が帰国
1885年12月12日、新島襄が横浜に帰国する。新島襄は、今回の欧米の外遊で、アメリカンボードから寄付金5万ドルの寄付を受けており、欧米外遊は大きな成果を上げていた。

■やっぱり、嫌われる新島襄
1885年12月18日午前、同志社チャペルと同志社図書館との定礎式が行われ、同日午後には同志社設立10周年記念会と新島襄の帰国歓迎会が行われた。

新島襄はこの時の演説で、スイスのアルプス(サンゴタール峠)で心臓発作で倒れた時のことを学生らに話し始めた。

そして、新島襄は「自分はそのとき非常に苦しんだ。諸君のことを思い、妻のことを思った」などと言って壇上で涙む。最前列で演説を聞いていた新島八重は、両手で顔を覆って泣き出した。

その様子を見ていた同志社英学校の学生は、新島夫婦に嫌悪を感じていた。

新入生の津下紋太郎は、「偉い先生はどのような話をするのだろうか」と期待していたのだが、新島襄が「妻のことを思った」などと言い出したため、新島襄に失望していた。

当時は人前で妻のことを話すことは恥ずべき行為であり、新島襄の演説を聴い生徒はみんな、新島襄を気持ち悪がったという。

実話「新島八重の桜」の京都編「山本覚馬の妻・山本時栄(小田時栄)の不倫事件のあらすじとネタバレ」へ続く。