山本覚馬の妻・山本時栄(小田時栄)の不倫事件
NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「山本覚馬の妻・山本時栄(小田時栄)の不倫事件」です。
このページは「実話-新島襄がアルプスのサンゴタール峠で心臓麻痺のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■新島八重の不倫事件
新島襄が欧米外遊に出ていた間に、山本覚馬の家では「一寸むつかしいこと」が起きた。新島襄が帰国した時には、大変なことになっていた。
新島襄は「自責の杖」事件の時、自らを罰して生徒を罰しなかったが、新島八重は山本覚馬の家で起きた「一寸むつかしいこと」を有耶無耶に終わらせようとはしなかった。
1885年(明治18年)、山本覚馬の家で「一寸むつかしいこと」ことが起きた。それは、山本時栄と山本覚馬の2人が、1885年(明治18年)5月18日に、宣教師グリーンの洗礼を受けて少し後の出来事だった。
ある日、山本覚馬の妻・山本時栄(小田時栄)が体調を崩したため、山本覚馬は医師ジョン・カッティング・ベリーを自宅へ呼び、妻・山本時栄を診察してもらう。
診察を終えた医師ジョン・カッティング・ベリーは帰りかけに玄関から、奥に向かって「おめでとうございます。妊娠5ヶ月です」と告げた。
しかし、奥の部屋で医師ジョン・カッティング・ベリーの言葉を聞いた山本覚馬は、思わず、「覚えが無い」と驚いたため、山本時栄の何者かと密かに情を通じていたことが発覚したのだ。
山本覚馬が妻の山本時栄を問い詰めると、山本時栄が口にしたのは、山本家が養子に迎えるために会津から招き、同志社栄学校へ入学させていた18歳の青年の名前であった。
妻の不倫が発覚したとき、夫の山本覚馬は57歳で、妻の山本時榮は女盛りの31歳であった。
■山本覚馬と小田時栄
妻の山本時栄(小田時栄)は元々、「蛤御門の変」で視力を失った山本覚馬の身の回りの世話をしていた13歳の少女だった。
戊申戦争時に山本覚馬が薩摩藩邸に監禁された時も、薩摩藩の許可を得て山本覚馬の世話を続け、釈放後に山本覚馬と一緒に同棲を始めた。このとき、山本覚馬は42歳で、山本時栄(小田時栄)は16歳であった。
1871年11月(明治4年10月)に山本八重(新島八重)が兄の山本覚馬を頼って会津から京都へ来たとき、18歳の山本時栄(小田時栄)は山本覚馬の子供を妊娠または出産していた。
山本覚馬は会津に妻「山本うら」を残していたが、妻「山本うら」は山本八重(新島八重)とは一緒に京都には来ず、離婚を望んで会津に残った。
このため、山本覚馬は妻「山本うら」と離婚し、愛人関係にあった山本時栄(小田時栄)と結婚していた。
■ならぬことはならぬものです
山本時栄(小田時栄)は13歳の時から盲目で足が不自由な山本覚馬を支え続けており、山本覚馬は不倫をして妊娠した妻・山本時栄(小田時栄)を許すことにした。
親族の間で山本時栄の不倫が問題となったが、不倫は夫婦同士の問題であり、夫の山本覚馬が山本時栄を許したため、事件は解決しようとしていた。
しかし、新島八重は「臭い物に蓋をしてはいけない」と言い、兄嫁・山本時栄(小田時栄)の不倫を追求し、ついには山本時栄を追い出してしまったのである。
この結果、山本時栄(小田時栄)は1886年(明治19年)2月19日に夫・山本覚馬と離婚した。
なお、この事件は徳冨蘆花(徳富健次郎)が自伝小説「黒い目と茶色い目」で明かしたものだが、小説がフィクションなのかノンフィクションなのか不明で、実際に不倫や妊娠があったかは不明である。
ただ、山本家で何らかの不祥事があり、山本覚馬と山本時栄とは離婚し、それに新島八重が関与していたことは事実である。
新島襄は、兄嫁の山本時栄を追い出した新島八重について、「お前の強情はかねがね、お兄さんや槇村さんから聞いていたが、こんなに酷いとは思わなかった。私はとんだしもうたことをした」とコメントしている。
実話「新島八重の桜」の京都編「アンドーヴァー論争と教会合同運動のあらすじとネタバレ」へ続く。
コメント欄
世間の顔と、個人の顔。どちらも人間の味と香りがしていい話ではありませんか。八重さんが少々、パブリックな心が強すぎるのでしょうね。
覚馬と離婚した前妻うらと八重は戦友のようなものだったはず。うらに成り代わった時栄を容認しても、兄を裏切ったことが明らかになった段階で、どうしても許せなくなった、と考えると自然ではないでしょうか。後妻にはいって年月がたったからといって、その経緯は忘れられる事ではないと思います。