小田時栄(おだ・ときえ)のwiki

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる山本八重(新島八重)の関連情報を紹介する「実話-小田時栄のwiki」です。

■小田時栄の概要wiki
小田時栄(おだ・ときえ)は、寛永6年5月7日に京都府京都市上京区下長者町通六軒町西入利生町で、父・小田隼人の4女として生まれた。

「小田時榮」が正しい表記であるが、「小田時栄」と表記することが多い。また、「小田時恵」「小田時枝」と表記する場合もあるが、「小田時恵」「小田時枝」は誤字である。

小田家は代々、丹波の郷士で、京都へ来て以降は武士の身分で御所に出仕していた。小田家は六軒町から七軒町までを所有する地主で、裕福な家庭だった。

小田時栄が芸者だったという説があるが、小田家は裕福であり、小田時栄が芸者をする必要も無いし、芸者をしたという記録も無い。

小田時栄は13歳の時に、蛤御門の変で目を負傷して失明しつつあった会津藩士・山本覚馬の世話係を任されたことを切っ掛けに、山本覚馬の目や足となり、山本覚馬と結婚する。

1885年(明治18年)5月18日、山本時栄は山本覚馬と共に、宣教師グリーンの洗礼を受け、キリスト教に入信するが、その直後に不祥事があり、1886年(明治19年)2月19日に妻・山本時栄と離縁した。

■小田時栄と山本覚馬の出会い
会津藩主・松平容保が京都府守護職の就任にともない、会津藩士の山本覚馬は、大砲奉行・林権助に随伴し、軍事取調役・大砲頭取として上洛する。

会津藩は教育を推奨しており、山本覚馬は京都で洋学所(蘭学所)を開くことが許された。この洋学所は藩籍に関係無く、志ある者は全て受け入れた。

1864年8月20日(1864年8月20日)、京都から追放された長州藩が京都に攻め入る(禁門の変=蛤御門の変)。

山本覚馬は大砲奉行・林権助とともに大砲隊を率いて、蛤御門(はまぐりごもん)の防衛に就く。蛤御門は長州藩の攻撃を受けて激戦となり、山本覚馬は目を負傷した。

蛤御門の変で目を負傷した山本覚馬は、後に失明することになる。山本覚馬は失明する原因は、蛤御門の変での負傷したからとも、大砲を撃つ時に発生する煙硝が目に入ったからとも言われている。

蛤御門の変の後も山本覚馬は京都に滞在して洋学所を続けていたが、目の状態は悪化し、視力を失いつつあった。

山本覚馬が武器の買い付けで長崎を訪れたさい、オランダ人医師ボードインに診察を受けたたところ、失明は時間の問題との診断であった。

このとき、小田時栄の実家・小田家は父・小田隼人が死去しており、兄・小田勝太郎が家督を継いでいた。

兄・小田勝太郎は山本覚馬と親しく、目を悪くした山本覚馬の為に、13歳の妹・小田時栄を世話係に就けることにした。このとき、山本覚馬は28歳であった。

小田勝太郎と山本覚馬との出会いは不明だが、小田家は御所に出仕していた関係で、小田勝太郎は山本覚馬と知り合ったと推測されている。

■山本覚馬の幽閉
明治天皇を擁する薩摩藩が、1868年1月8日に「王政復古の大号令」を布告すると、京都の二条城に居た江戸幕府将軍・徳川慶喜は恭順を示すため、大阪城へ退いた。

徳川慶喜が大阪へ退いたことにともない、会津藩も大阪へと移動したが、目を悪くした山本覚馬は京都に残っていた。小田時栄も京都で山本覚馬の世話を続けている。

しかし、江戸で「薩摩藩邸焼き討ち事件」が発生すると、大阪に駐留する会津藩から「倒薩」の声が挙り、江戸幕府連合軍は京都へと兵を進めた(鳥羽・伏見の戦い)。

会津藩の京都進軍を知った山本覚馬は、会津藩が朝敵となることを心配し、進軍の中止を直訴するために大阪へ向かったが、既に街道は薩摩兵に封鎖されており、大阪へ向かうことは出来なかった。

そこで、山本覚馬は、朝廷に敵意が無いことを説明するため、京都へと引き返したが、その途中で薩摩藩に捕まった。

山本覚馬は処刑されかけたが、知り合いの薩摩藩士に助けられ、薩摩藩邸で幽閉されることになる。

山本覚馬は、薩摩藩邸で幽閉される前、小田時栄の実家・小田家に匿われていたと伝わるが、詳細は分からない。

■山本覚馬の幽閉と小田時栄
山本覚馬は幽閉中に、同じく幽閉中の野沢鶏一に口述筆記を頼み、近代的国家のあり方を示した意見書「山本覚馬建白(管見)」を書き上げ、新政府に提出していた。

山本覚馬が提出した意見書「山本覚馬建白(管見)」は、薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀らに認められ、山本覚馬は幽閉中の身でありながら、優遇されていた。

小田時栄は、薩摩藩の許可を得て薩摩藩邸に通い、幽閉中も山本覚馬の身の回りの世話を続けた。

■山本覚馬と小田時栄が同棲
1869年(明治2年)、薩摩藩に幽閉されていた山本覚馬が釈放される。幽閉されてから1年が経過しており、既に会津藩は会津若松城が落城し、降伏していた。

釈放された山本覚馬は小田時栄と、京都で同棲を開始する。このとき、山本覚馬は42歳で、小田時栄は16歳であった。明治時代に淫行条例のような法律は無いので、合法である。

山本覚馬は1年間にわたる幽閉中に完全に失明したうえ、脊髄を痛めて足を悪くしており、小田時栄は山本覚馬の目と成り、足と成って、山本覚馬を支えた。

「山本覚馬伝」では、小田時栄のことを「かつて先生を危難からかくまい、木戸孝允の妻松女(木戸松子)と並び称させられた女で、常に先生の座臥身体を助けた」と評価している。

■山本覚馬の引っ越し
釈放後、山本覚馬は兵部省で客員をしとき、京都府の大参事(現在の副知事に相当)・河田佐久馬(後の河田景与)から顧問就任の要請を受ける。これは、幽閉中に書いた意見書「山本覚馬建白(管見)」が認められたからである。

山本覚馬が京都府の顧問に就任後、長州藩出身の槇村正直が京都府の大参事に就任し、山本覚馬は槇村正直と共に京都の産業復興に力を入れる事になる。

1871年(明治4年)、京都府の顧問となった山本覚馬は、京都府の大参事・槇村正直の自宅の隣にある豪邸に引っ越した。

山本覚馬が引っ越した家は、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾「お芳」の父親で、江戸の町火消しとして有名な新門辰五郎が京都滞在中に住んでいた豪邸(新門辰五郎の旧邸)である。

敷地面積は100坪ほどあり、台所の他に5室ある豪邸で、小田時栄の兄・小田勝太郎の斡旋により、山本覚馬は36円で新門辰五郎の旧邸を購入したとされている。

小田時栄の兄・小田勝太郎は、新門辰五郎と交流があり、山本覚馬と妹・小田時栄のために新門辰五郎の旧邸を斡旋したのだという。

ただ、山本覚馬を「先生」と呼んで慕う大参事・槇村正直が、自宅の隣を山本覚馬に紹介したという説もある。

いずれにしても、新門辰五郎の旧邸が山本覚馬と小田時栄の新居となった。

■小田時栄と山本覚馬の結婚
1871年11月(明治4年10月)、会津藩の敗戦後も会津で生活していた母・山本佐久が、妹・山本八重と山本覚馬の娘「山本みね」を連れて、山本覚馬を頼って京都へやってくる。

母・山本佐久らが京都へ来たのは、山本覚馬が新門辰五郎の旧邸に引っ越してから、少し後のことである。

このとき、山本覚馬は44歳で、小田時栄は18歳だった。妹の山本八重は26歳なので、山本覚馬は妹よりも若い愛人と暮らしていたことになる。

山本覚馬の妻「山本うら」は離婚を望んで会津に残った。会津に残った理由は分からない。

妻「山本うら」は会津に残ったため、山本覚馬は妻「山本うら」と離婚して、愛人の小田時栄と結婚することになる。

■小田時栄の娘・小田久栄
1871年(明治4年)、18歳の愛人・小田時栄は山本覚馬の娘となる小田久栄(おだ・ひさえ)を出産した。

通説では、会津で生活していた妹・山本八重が兄・山本覚馬を頼って京都に来た時(1871年11月)には、小田時栄は小田久栄を出産していたとされているが、小田久栄の誕生日は分からない。

■山本時栄が山本覚馬と離婚
1885年(明治18年)5月18日、山本時栄と山本覚馬の2人は、宣教師グリーンの洗礼を受け、キリスト教に入信する。その直後、山本家で「一寸むつかしい事」が起きた(事件の詳細は後記する)。

山本覚馬は妻の山本時栄(小田時栄)を許したのだが、山本覚馬の妹・新島八重(山本八重)は「臭い物に蓋をしては行けない。全てを明らかにする」として、山本時栄を糾弾した。

その結果、新島八重(山本八重)が兄嫁・山本時栄を追い出す形となり、山本覚馬は1886年(明治19年)2月19日に妻・山本時栄と離縁した。

■山本時栄の事件
山本家に起きた「一寸むつかしい事」の詳細は不明だが、同志社英学校に在席した徳富健次郎(徳冨蘆花)の自伝的小説「黒い眼と茶色の目」によると、山本家では次のような事件が起きた。

1885年(明治18年)、妻の山本時栄の体調が悪いため、山本覚馬は医師ジョン・カッティング・ベリーに往診を頼む。

山本時栄の診察を終えた医師ジョン・カッティング・ベリーは、帰りがけに玄関の上がりかまちから、奥に向かって「おめでとう。もう5ヶ月です」と告げた。

しかし、奥でこれを聞いた山本覚馬が「身に覚えが無い」と言い出したため、妻・山本時栄の不倫が発覚し、山本一族の間で騒ぎになった。

山本覚馬が山本時栄に問いただしたところ、不倫の相手は、山本家が養子に迎えるため、会津から呼び寄せ、同志社英学校で学ばせていた18歳の青年であることが判明した。

しかし、山本時栄は13歳の時から目が不自由になった山本覚馬の目や足となって山本覚馬のことを支えていることなどから、山本覚馬は妻・山本時栄の不倫を許すことにした。

夫の山本覚馬が許すことにしたため、新島襄らも納得して問題は解決しようとしたのだが、山本覚馬の妹で新島襄の妻・新島八重(山本八重)が「臭い物に蓋をしては行けない。全てを明らかにする」として、山本覚馬の娘「山本みね」とともに、山本時栄を追い出した。

■徳富健次郎の創作説
山本時栄の不倫相手は、会津出身で同志社英学校に通っていた望月興三朗の弟だとされているが、望月興三朗に弟は存在したいため、山本時栄の不倫事件は徳富健次郎の創作という説もある。

■離婚後の山本時栄
離婚後、娘の山本久栄(小田久栄)は山本家に残った。山本久栄は母・小田時栄(山本時栄)に会うことを禁じられ、新島八重らによって監視されたされている。

一方、離婚した小田時栄(山本時栄)は東京へ行ったとも、アメリカへ渡ったとも言われている。

NHK大河ドラマ「八重の桜」に関連する情報は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。