山本久栄(やまもと・ひさえ)のwiki

NHK大河ドラマ「八重の桜」に登場する人物の実話やモデルを紹介する史実・実話のネタバレシリーズ「山本久栄のネタバレwiki」です。

NHK大河ドラマ「八重の桜」の登場人物ネタバレの一覧は『NHK大河ドラマ「八重の桜」のキャストのまとめ一覧』をご覧ください。

■山本久栄のネタバレwiki
山本久栄(やまもと・ひさえ)は、1871年(明治4年)に京都府で生まれた。父親は山本覚馬(やまもと・かくま=44歳)で、母親は愛人の小田時栄(おだ・ときえ=18歳)である。

正式には「山本久榮」だが、一般的には「山本久栄」を使う場合が多い。また、母親の旧姓を使用し、「小田久栄」と表記する場合もある。

山本久栄が生まれたとき、父親の山本覚馬は会津(福島県)に正妻「山本うら(樋口うら)」がおり、母親・小田時栄は愛人(妾)だったため、山本久栄の誕生日・生年月日は分からない。

山本久栄は1893(明治26年)7月20日に23歳(数え年)で死去しているため、逆算すると1871年(明治4年)生まれとなる。

山本久栄(小田久栄)の誕生後、山本覚馬が正妻「山本うら」と離婚し、京都で同棲した小田時栄と結婚したため、山本久栄は山本覚馬の養女となる。

山本覚馬には妻「山本うら」との間に次女「山本みね」がいるため、山本久栄は山本覚馬の三女という位置づけになる。なお、山本覚馬の長女は、生まれて直ぐに死んでいる。

■小田時栄の生涯のネタバレwiki
山本久栄は山本覚馬の養女として育つが、山本家で不祥事があり、母親・小田時栄は1886年(明治19年)2月19日に山本覚馬と離婚する。その後、山本久栄は山本覚馬に引き取られ、山本家で育った。

(注釈:山本家で起きた不祥事については、「山本覚馬の妻・山本時栄(小田時栄)の不倫事件」をご覧ください。)

一説によると、山本久栄は離婚した母・山本久栄と会うことを禁じられ、新島八重(山本八重)によって厳しく管理されていたとされていた(注釈:新島八重は山本覚馬の妹)。

また、一説によると、母・山本久栄が山本覚馬の一部親族から嫌われていた関係で、小田時栄も一部親族から嫌われていた。

山本久栄は1882年(明治15年)9月に同志社女学校に入学する。山本久栄は同志社女学校4年生の1886年(明治19年)に、同志社英学校の3年生・徳富健次郎(徳冨蘆花)に見初められ、事実上の婚約を申し込まれて恋愛に発展する。

しかし、山本久栄の元に届いた手紙は新島八重・新島襄夫婦に検閲されており、徳富健次郎(徳冨蘆花)は周囲の反対に遭ったため、不本意ながら山本久栄との婚約を破棄する。

1887年(明治20年)12月、失恋した徳富健次郎(徳冨蘆花)は同志社英学校を退学して故郷の熊本県に帰ることに決め、山本久栄に別れの挨拶を申し込むが、最後の面会に新島八重・新島襄夫婦が同席した。

徳富健次郎(徳冨蘆花)は新島八重・新島襄夫婦に退席を求めたが、新島襄が「山本久栄に届いた手紙は新島家に届くようになっている。ここで話しなさい」と言い、退席を拒否したため、徳富健次郎(徳冨蘆花)は山本久栄と言葉を交わすこと無く、京都を出た。

その後、山本久栄は1888年(明治21年)6月、同志社女学校を卒業する。この時の卒業者は、高松新子や林外浪など、山本久栄を含めて計5人であった。

山本久栄は同志社女学校に在学していた間、男性との噂が多数あったが、誰とも結婚することなく、神戸にある神戸英和女学校へ進学した。

山本久栄は神戸英和女学校を卒業した後、京都にある傍仏語英学校で働いたが、1892年(明治25年)6月に脳病を患い、床に伏せる。

1892年(明治25年)12月28日に父・山本覚馬が死去し、山本久栄は翌年の1893(明治26年)7月20日に死去した。

山本久栄の死後、同志社英学校に在席する生徒・青柳有美(後のジャーナリスト)は、「悲しめる者は幸いなり」と書いた立て札を山本久栄の墓に添えた。

実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレは『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

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