実話-山本久栄と徳富健次郎(徳冨蘆花)の生涯

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-山本久栄と徳富健次郎(徳冨蘆花)の生涯」です。

このページは「A・ハーディーの死因-大島正満と日向ユキと雑賀浅のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』です。

■徳富健次郎(徳冨蘆花)の復学
1880年(明治13年)に起きた「自責の杖」事件の後、同志社英学校を退学した徳富健次郎(後の徳冨蘆花)が、1886年(明治19年)9月から3年生として同志社英学校に復学する(注釈:当時は9月に新学期が始まっていた)。

■同志社英学校を退学した徳富健次郎
徳富健次郎(徳冨蘆花)は1878年(明治11年)、12歳の時に同志社英学校に入学し、1880年(明治13年)に起きた同志社英学校の2年生上級組・下級組の合併問題(自責の杖事件)の際には、2年生の上級組として集団欠席していた。

この2年生のクラス合併問題は新島襄が「自責の杖」で生徒を処分することなく解決したが、集団欠席を扇動した兄・徳富猪一郎(徳富蘇峰)ら3人が退学した。

(注釈:新島襄の「自責の杖」事件については、「実話-新島襄の「自責の杖」事件のあらすじと黒幕のネタバレ」をご覧ください。)

弟・徳富健次郎(徳冨蘆花)は「自責の杖」事件の後も同志社英学校に残っていたが、1ヶ月ほどして同志社英学校を退学し、実家の熊本県へ戻っていた。徳富健次郎が退学したのは、13歳の夏の出来事であった。

■徳富健次郎の洗礼
同志社英学校を退学して熊本に戻った徳富健次郎(徳冨蘆花)は、15歳か16歳の時から、みなぎる性欲と戦う日々が続いた。また、兄・徳富猪一郎(徳富蘇峰)とも戦い続けた。

1885年(明治18年)3月、母親ら親族数人がキリスト教の洗礼を受けることにしたため、徳富健次郎(徳冨蘆花)も母親と一緒に洗礼を受けた。

それ以降、キリストの力を得た弟・徳富健次郎(徳冨蘆花)は、無言の抵抗をもって兄・徳富猪一郎(徳富蘇峰)に抵抗するようになり、兄弟はますます溝を深めた。

これを心配した両親は、弟・徳富健次郎(徳冨蘆花)を愛媛県今治に居る伊勢時雄に預けた。こうして、徳富健次郎は愛媛県今治にある伊勢時雄の教会で働くことになった。

伊勢時雄は、熊本洋学校を追われて同志社英学校へ入学した熊本バンドのメンバーで、新島襄からの信頼も厚く、愛媛県の今治でキリスト教の布教に努めていた。

また、伊勢時雄は、山本覚馬の娘「山本みね」と結婚しており、同志社との関係が深かった。

(注釈:「山本みね」は、山本覚馬と前妻「山本うら」との間に生まれた娘で、山本久栄の異母姉である。)

新島襄が1883年(明治16年)に同志社大学の設立に向けて動き出した時も、伊勢時雄は大学設立の発起人となっていた。

伊勢時雄は徳富健次郎(徳冨蘆花)を預かったが、同志社との関係で、1886年(明治19年)6月に愛媛県から京都府へ引っ越すことになった。

徳富健次郎(徳冨蘆花)は愛媛県今治の教会に残っていたが、京都へ引っ越した伊勢時雄に誘われたため、京都へと移り、1886年(明治19年)9月に同志社英学校の3年生に入学するとにした。

■山本久栄との出会い
1886年(明治19年)9月、徳富健次郎(徳冨蘆花)が同志社英学校の3年生に再入学したとき、山本久栄は同志社女子校の4年生であった。

このとき、徳富健次郎(徳冨蘆花)が居候していた伊勢家では、伊勢時雄の妻「山本みね」が妊娠していた。

「山本みね」と山本久栄の2人は異母姉妹だったため、山本久栄は伊勢家に出入りしていた。そういう経緯で徳富健次郎(徳冨蘆花)は同志社英学校に入学する少し前に、山本久栄と知り合った。

その後、「山本みね」は産後の肥立ちが悪くて死んでしまったうえ、身内に病人が出たため、窪田家から女性・窪田が手伝いで、伊勢家に出入りするようになった。

この女性・窪田は、山本家の長女、つまり、山本八重(新島八重)の姉だと思われるが、詳しいことは分からない。

一方、徳富健次郎(徳冨蘆花)は山本久栄に恋をして、大文字焼きなどを切っ掛けに、山本久栄と急速に接近した。

ところが、そこへ、恋のライバルが現れた。熊本から従兄弟で問題児の竹崎土平が上京してきたのだ。この竹崎土平が山本久栄と急接近したため、徳富健次郎(徳冨蘆花)は狼狽する。

(注釈:徳富健次郎も竹崎土平も、明治時代の教育家・竹崎純子の孫にあたる。)

怒った徳富健次郎(徳冨蘆花)は山本久栄に手紙を出して、竹崎土平との関係や男性関係の噂について問いただした。

その結果、山本久栄の男性関係についての誤解が解けると、徳富健次郎(徳冨蘆花)は手紙で山本久栄に事実上の婚約を申し込んだのである。

ところが、山本久栄に届いた手紙は新島家に回されるようになっており、徳富健次郎(徳冨蘆花)が山本久栄に出した手紙の内容は、新島襄や新島八重らに筒抜けになっていた。

■監視されていた山本久栄
山本久栄は、山本覚馬と後妻・山本時栄(小田時栄)の間に生まれた子で、山本時栄(小田時栄)は山本家で不祥事(不倫事件)を起こして、1886年(明治19年)2月19日に離婚した。

徳富健次郎(徳冨蘆花)が山本久栄と出会ったのは、母・山本時栄(小田時栄)が離婚した年の夏だった。

同志社女子校に通う山本久栄は、同志社英学校の宿舎に入っていた。この時の舎監を務めていたのが、新島八重(山本八重)の母・山本佐久だった。

理由や経緯は不明だが、新島八重や山本佐久が山本久栄を監視しており、山本久栄へ届いた手紙は新島家に届けられていた。

一説によると、山本久栄は離婚した母親・山本時栄(小田時栄)と会うことも連絡を取ることも禁じられていた。このため、山本久栄は新島八重や山本佐久に監視され、手紙も新島家に届けられていたようである。

また、山本時栄(小田時栄)が後妻だった関係で、山本時栄(小田時栄)やその娘・山本久栄を嫌う者が居り、山本時栄(小田時栄)や山本久栄の悪い噂を流していたようである。

■山本久栄との破局
ある日、竹崎土平は、伊勢時雄の家へ手伝いに来ていた女性・窪田から、山本久栄が同志社女学校で窃盗事件の容疑者になったことや、山本久栄宛ての手紙は全て新島八重らが読んでいることを聞かされる。

すると、竹崎土平は、同志社女子校へ行き、山本久栄を呼び出して大声で窃盗について尋問したうえで、徳富健次郎(徳冨蘆花)との婚約を勝手に破棄してしまったのである。

その後、竹崎土平は徳富健次郎(徳冨蘆花)の元を訪れ、「代わりに婚約を破棄してきた。それと、手紙の内容は全て新島襄に知られているぞ」と言い、女性・窪田から聞いた噂を教えた。

徳富健次郎(徳冨蘆花)は、手紙の内容が全て新島襄に伝わっていることにも驚いたが、竹崎土平が勝手に婚約破棄をしてきたことも驚き、激怒した。

徳富健次郎(徳冨蘆花)は仕方なく、「こうなった以上は、自分の口から婚約を破棄を伝える」と決めるのだが、徳富健次郎(徳冨蘆花)は優柔不断な行動をとり、二転三転した末、1887年(明治20年)9月に山本久栄と破局に至る。

1887年(明治20年)10月、徳富健次郎(徳冨蘆花)は脚気の療養を口実に傷心旅行へ出て、清滝の旅館「ますや」に滞在する。しかし、宿代が積もり積もって支払えなくなり、旅館「ますや」から出るに出られなくなってしまう。

徳富健次郎(徳冨蘆花)は何とか金を工面して、同志社英学校に戻って学業に専念しようとするのだが、徳富健次郎(徳冨蘆花)が傷心旅行に出ている間に、授業はかなり進んでいた。

その後、徳富健次郎(徳冨蘆花)は京都でも、方々に借金を作ったため、京都を去ることにした。

そこで、徳富健次郎(徳冨蘆花)は未練の残る山本久栄に会って別れを告げるため、同志社女子学校の宿舎へ行き、山本久栄との面会を求めた。

しかし、ちょうど新島八重が同志社女子学校の宿舎に来ており、新島八重に山本久栄との面会を拒否されてしまう。

徳富健次郎(徳冨蘆花)が必死に山本久栄との面会を懇願すると、新島八重は仕方なく、「山本久栄を連れて帰るから、新島家に来なさい」と面会を許可した。

こうして、徳富健次郎(徳冨蘆花)は新島家で山本久栄と面会することができたのだが、山本久栄との面会には新島襄と新島八重の2人が同席した。

徳富健次郎(徳冨蘆花)は新島襄と新島八重の2人に退室を求めたが、新島襄は「それは出来ない。山本久栄に届いた手紙は、全て新島家に回ってくるようになっている。ここで話しなさい」と命じた。

すると、徳富健次郎(徳冨蘆花)は「それなら帰る」と言い、山本久栄とは話すこと無く、新島家を出た。

その後、徳富健次郎(徳冨蘆花)は親類から、「新島先生は『借金は立て替えるから、同志社に戻らないか』と言っている。一緒に謝るから、同志社へ戻らないか」と引き留められた。

しかし、徳富健次郎(徳冨蘆花)が失恋で心に受けた傷は大きく、1887年(明治20年)12月16日に京都を後にしたのであった。

■山本久栄と徳富健次郎(徳冨蘆花)の生涯
山本久栄は徳富健次郎(徳冨蘆花)と破局した後も同志社女子校に残り、1888年(明治21年)6月に同志社女学校を卒業する。この時の卒業生は、高松新子や林外浪など計5人であった。

在学中の山本久栄には色々な男性との噂があったが、山本久栄は同志社女子校を卒業しても誰とも結婚せず、神戸にある神戸英和女学校へ進学した。

山本久栄は神戸英和女学校の卒業後、京都にある傍仏語英学校で働いたが、1892年(明治25年)6月に脳病を患い、父・山本覚馬が死んだ翌年の1893(明治26年)7月20日に死去した。

山本久栄の死後、同志社英学校に在席する生徒・青柳有美(後のジャーナリスト)は、「悲しめる者は幸いなり」と書いた立て札を山本久栄の墓に添えたという。

一方、徳富健次郎(徳冨蘆花)が山本久栄との失恋で抱えた闇は大きく、新島襄の危篤の電報を受けても、徳富健次郎(徳冨蘆花)は駆け付けなかった。

その後、徳富健次郎(徳冨蘆花)は27歳の時に21歳の処女と結婚した。そして、1917(大正6年)に、山本久栄との恋愛を描いた自伝的小説「黒い眼と茶色の目」を書いた。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-松平容大が同志社に入学のあらすじとネタバレ」へ続く。

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