新島八重ノ脂肪ヲ減スルノ法
NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島八重ノ脂肪ヲ減スルノ法」です。
このページは「実話-新島襄の余命宣告のネタバレ」からの続きです。
実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』です。
■新島八重は太っていた
新島八重は太っていた。いわゆる「ポッチャリ系」である。同志社英学校の生徒・徳富健次郎(徳冨蘆花)も、新島八重の容姿を「目尻の下がったテラテラと光る赤い顔と相撲取りのような体」と書き残している。
薩摩出身の西郷隆盛は、歌舞伎の演目「西郷と豚姫」があるように、太った女性が好きだった。西郷隆盛は、いわゆる「デブ専」である。
一方、新島襄が西郷隆盛とは違ってデブ専ではなかったのか、新島襄は結婚する前から新島八重(山本八重)の体型が気になっていた。
■新島八重の脂肪を減するの法
1888年(明治21年)5月9日、新島襄は東京帝国大学のドイツ人医師ベルツの診察を受け、近い将来に心臓病で死ぬことを知る。
1888年(明治21年)5月11日、余命宣告を受けた新島襄は「吉野の山林王」と呼ばれる土倉庄三郎に手紙を送り、新島八重の老後の生活費を準備するため、マッチ棒用の植林の共同出資を依頼する。
1888年(明治21年)7月2日、新島八重は難波医師から新島襄の症状を聞いて余命宣告を受け、新島襄に余命宣告を伝える。新島襄は、脳卒中の可能性があるということであった。
1888年(明治21年)7月9日、新島襄は東京帝国大学のドイツ人医師ベルツの診察を受ける。このとき、新島襄はベルツ医師に、新島八重の脂肪を減らす方法を尋ねた。
なんと、新島襄は自分が死亡することよりも、太った新島八重の脂肪を気にしていたのである。
新島襄は結婚前から新島八重の体型を気にしており、「新島八重が転んで怪我をしてはいけない」として、新島八重が大切にしている舶来品のハイヒールのかかとを切り落としたこともあった。口には出さないが、ずっと気にしていたのだろう。
ベルツ医師から教えてもらった「八重ノ脂肪ヲ減スルノ法(八重の脂肪を減らするの法)」は、米食をパン食に変え、脂肪の少ない肉や魚を食べるようにする、という内容であった。ただ、新島八重がダイエットを実践したかは分からない。
このように、新島襄は自分が余命宣告を受けても、新島八重の老後の心配をしたり、新島八重の体重を心配した。
新島襄がいつも心にとめるのは、同志社の生徒のことであり、妻の新島八重のことであった。
しかし、妻の新島八重は、新島襄の余命宣告を切っ掛けに態度を一変させた。
新島八重の豹変により、新島襄が恐れ戦いた「鬼の三島総監」事件へと発展してしまう。それは、まさに生き地獄であった。
実話「新島八重の桜」の京都編「新島八重は恐怖の三島通庸!鬼の三島総監事件のあらすじとネタバレ」へ続く。