実話-新島襄の最後の聖戦

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄の最後の聖戦」です。

このページは「新島八重は恐怖の三島通庸!鬼の三島総監」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島襄の最後の聖戦
新島八重は1888年(明治21年)7月2日に難波医師から受けた余命宣告を新島襄に伝えとき、既にドイツ人医師ベルツから余命宣告を受けていた新島襄は療養せずに、残りわずかな命を治専門学校の設立運動に費やすことを決めていた。

1888年(明治21年)7月19日、新島襄は2代目の外務大臣・大隈重信(おおくま・しげのぶ)の自宅で、政財界の有力者に明治専門学校の必要性を訴えた。

2代目の外務大臣・大隈重信は新島襄に好意的で、新島襄の大学設立運動を支援した。

大隈重信は後に早稲田大学を開校しており、同志社大学と早稲田大学の2校間に交流があるのは、この時からの縁である。

■徳富猪一郎(徳富蘇峰)の協力
新島襄が最も目をかけていた生徒・徳富猪一郎(徳富蘇峰)は、「自責の杖」事件の後、卒業まで1ヶ月という時期に同志社英学校を退学した。

その後、徳富猪一郎(徳富蘇峰)は紆余曲折を経て、1887年(明治10年)に東京で出版社「民友社」を設立した。そして、月刊誌「国民之友」を創刊し、思想界に大きな影響を与える存在になっていた。

秘密結社「同心交社」のリーダー格だった徳富猪一郎(徳富蘇峰)は同志社英学校時代にクーデター「自責の杖事件」を起こし、その後、同志社英学校を去ったが、新島襄に対する尊敬の念を失ったわけでは無かった。

徳富猪一郎(徳富蘇峰)は新島襄の安中旅行へも同行し、蕎麦の大食い勝負もしているし、弟・徳富健次郎(徳冨蘆花)が同志社英学校に再入学した時も新島襄と連絡を取り合っている。

そして、新島襄が第2次大学設立運動を本格化させると、徳富猪一郎(徳富蘇峰)は関東方面で新島襄の手足となって動いていた。

■明治専門学校から同志社大学へ
1888年(明治21年)9月、新島襄は徳富猪一郎(徳富蘇峰)の助言により、設立予定の学校の名称を「明治専門学校」から「同志社大学」へと変更する。

元々、新島襄は「同志社大学」という名称で大学を設立しようとしていたが、「同志社」という名前にはキリスト教のイメージが付いているため、「同志社大学」では財界人からの寄付が集まらないとして、「明治専門学校」へと名称を変更していた。

しかし、徳富猪一郎(徳富蘇峰)の助言により、再び「同志社大学」へと変更となる。

名称を「同志社大学」へと戻した新島襄は、大学設立の寄付金集めに精力を注ぐため、最も信頼している徳富猪一郎(徳富蘇峰)に、「同志社大学設立の旨意」の作成を依頼した。

■新島襄の飛翔
1888年(明治21年)11月、新島襄は月刊誌「国民之友」のほか、全国の主な雑誌や新聞に「同志社大学設立の旨意」を発表する。

新島襄は欧米外遊で5万ドルの寄付を集め、日本でも有力者から相当の寄付を集めていたが、大学を設立するためには、もっと多くのお金が必要だった。

新島襄が発表した「同志社大学設立の旨意」は全国で大きな反響を呼んでおり、追い風に乗った飯島襄は、寄付金を集めるため、徳富猪一郎(徳富蘇峰)の居る関東で遊説することにした。

その一方で、アメリカのハリス頭取から理科学校の建設費用として10万ドルの寄付を得て、ハリス理科学校の建設にも着手する。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄が百足屋で死亡のあらすじとネタバレ」へ続く。