実話-新島襄の死後-金森通倫と小崎弘道
NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄の死後-金森通倫と小崎弘道」です。
このページは「実話-新島襄が百足屋で死亡のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■金森通倫の失望
熊本バンドの金森通倫(かなもり・みちとも)は、病に倒れた新島襄の代理として同志社英学校の校長を務めており、名実ともに2代目総長の最有力者であったが、新島襄の死後、同志社を去った。
金森通倫(かなもり・みちとも)は、熊本洋学校でL.L.ジェーンズの影響を受けて洗礼を受け、故郷の熊本を追われて同志社英学校に入学した熊本バンドのメンバーである。
そして、金森通倫は、新島襄が西京第二公会で最初に洗礼を与えた信徒であり、いわば、新島襄の1番弟子であった。
金森通倫は同志社英学校を卒業後、岡山県の教会でキリスト教の布教活動をしていたが、同志社の要請を受けて同志社へ戻っていた。
そして、余命宣告を受けた新島襄の代理として、1889年(明治22年)9月に同志社の総長代理に就任し、名実ともに金森通倫が新島襄の後継者となっていた。
このころ、日本では「教会合同運動」が起きていた。教会合同運動とは、同志社のプロテスタント会衆派(組合教会)と、横浜のプロテスタント長老派(一致教会)とを合併させる運動である。
(注釈:教会合同運動についは、「アンドーヴァー論争と教会合同運動のあらすじとネタバレ」をご覧ください。
同志社側は、熊本バンドの小崎弘道が中心となって教会合同運動を進めており、金森通倫も教会合同運動の賛成派だった。
しかし、新島襄は、合併して長老派に主導権を握られると、アメリカン・ボードからの寄付が打ち切られる可能性があるため、徳富猪一郎(徳富蘇峰)らと共に教会合同運動には反対していた。
教会合同運動賛成派の金森通倫は、同志社の総長代理という立場上、表だって反対派の新島襄を批判できず、小細工を弄して新島襄の反対運動を妨害した。
このため、新島襄は遺言に、「金森通倫氏を私の後任とするのは差しつかえない。氏は事務に精通し、鋭い才気の点では比類がないが、教育者として人を指導し、補佐する面では徳がなく、あるいは小細工をしやすいという欠点がないとは言えない。この点は私がひそかに残念に思うところである」と書き残したのである。
1890年(明治23年)1月23日に新島襄が死去すると、同年4月に同志社系の組合教会は、教会合同運動の中止を決定し、教会合同運動は終結した。
新島襄の遺言を読んだ金森通倫は、新島襄に失望して同志社に対する熱が冷めており、教会合同運動の中止を受けると、同志社の総長代理を辞任し、同志社を去った。
その後、金森通倫は新神学論を発表するが、組合教会はこれを異端扱いし、金森通倫は追放同然の扱いで組合教会を脱退した。
一方、2代目総長に就任する予定の金森通倫が去ったため、急遽、山本覚馬が同志社の臨時総長に就任した。
その後、熊本バンドの小崎弘道が同志社の総長を引き受けたため、山本覚馬は臨時総長を辞任し、小崎弘道が2代目総長に就任した。
■新島襄の死後-同志社のその後
同志社英学校では、設立当初より、日本人教師と在日宣教師(外国人教師)との間に対立があった。
この問題に苦労した新島襄は、遺書に「日本人教師と外国人教師との関係についてはできるだけ調停の労をとり、両者の協調を維持すること。これまで私は何回も両者の間に立って苦労した」と書き残している。
同志社女学校では、この対立が色濃く、新島八重と母・山本佐久が在日宣教師スタークウェザーを追い出し、アメリカン・ボードが同志社女子学校の閉鎖を決議するという一幕もあった。
新島襄はアメリカの宗教団体「アメリカン・ボード」に所属する準宣教師だったため、日本人教師と在日宣教師との間に入っていたが、新島襄の死後は間に入る者が居なかった。
同志社の2代目総長となった小崎弘道は、在日宣教師との対立を深め、アメリカン・ボードからの寄付を拒絶した。
これを切っ掛けにアメリカン・ボードは、1896年(明治29年)に同志社から完全撤退することを決定し、在日宣教師(外国人教師)を引き上げた。
同志社英学校はアメリカンボードの寄付によって設立・運営されていたため、アメリカン・ボードの撤退により、同志社は資金繰りが悪化してしまう。
しかし、アメリカン・ボードが撤退したおかげで、同志社が日本の学校として認められるようになり、新島襄が生前に明治政府と交渉していた兵役免除の特権を得ることができた。
ただ、日本政府はキリスト教の学校には兵役免除を認めなかったため、小崎弘道は同志社英学校から聖書の授業を廃止しており、同志社は聖書の授業と引き替えに兵役免除の特権を得ていた。
このため、2代目総長の小崎弘道はキリスト教関係者から批判を受け、1897年(明治30年)に2代目・同志社総長を辞任した。
その後、同志社英学校は紆余曲折を得て、1920年(大正9年)に大学令に基づく大学「同志社大学」となった。新島襄の夢が実現したのは、新島襄が死去してから30年後であった。
実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島八重は日本のナイチンゲールのあらすじとネタバレ」へ続く。