実話-新島八重は日本のナイチンゲール
NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島八重は日本のナイチンゲール」です。
このページは「実話-新島襄の死後-金森通倫と小崎弘道のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■新島襄の死後の新島八重
新島八重は、1890年(明治23年)1月23日に新島襄の死亡した後、新島邸で1人暮らしを始めた。
新島家には家政婦が居たが、新島八重の性格が原因で、新島家の家政婦は長続きせず、新島襄の死後は家政婦も居なかった。
新島八重は同志社女学校で教鞭をとるなどしていたが、新島襄の死後は同志社に口を出すことは少なくなった。新島八重は何度も同志社に借金を申し込んでいるので、疎遠になったというわけではない。
一方、新島襄の実家・新島家とは距離を置いた。新島八重には新婚時代から、嫁姑問題があったらしい。養子の新島公義とも疎遠となった。
新島家の養子・新島公義は、新島襄が迎えた養子と誤解されがちだが、新島公義は新島襄が迎えた養子ではない。
新島公義は、新島襄が脱国してアメリカに滞在している間に、弟・新島双六が死亡したため、新島双六の家督を継がせるために、新島家が迎えた養子である。
新島公義は、新島襄からすれば、義理の甥であるが、新島八重からすればほとんど他人で、新島襄の死後はあまり交流は無かったという。
■新島八重が赤十字に入る
1890年(明治23年)4月26日、新島八重は赤十字社の正社員となり、同年6月10日に赤十字の終身社員となる。
1890年(明治23年)9月、同志社ハリス理化学校が開校する。新島襄は生前にハリス頭取から理科学校の建設資金として10万ドルの寄付を受けて、同志社大学の設立と平行してハリス理化学校の建設も進めおり、新島襄の死後、ようやく完成した。
1892年(明治25年)3月、小崎弘道が同志社の総長への就任要請を受け入れたため、山本覚馬が同志社の臨時総長を辞任し、小崎弘道が2代目総長に就任する。
1892年(明治25年)12月28日、山本覚馬は死亡する。山本覚馬は享年64歳であった。
■新島八重は日本のナイチンゲール
1894年(明治27年)7月に日清戦争が勃発すると、国は負傷兵の看護に女性を活用することにした。
若い女性が兵士と接触すると、兵士の風紀を乱す可能性があるため、従軍看護婦には「年寄りで、かつ、美人で無い者」が選ばれたという。
1895年(明治28年)、新島八重は従軍看護婦のリーダーとして、赤十字と京都看護婦学校の看護婦20数名を率いて広島県にある陸軍予備病院を訪れ、4ヶ月間にわたり、負傷兵の看護をする。
新島八重らの従軍看護婦は篤志看護婦(ボランティア看護婦)とも呼ばれている。
従軍と言っても戦地へ行くわけではない。新島八重が看護活動を行ったのは、広島県にある陸軍予備病院である。新島八重ら看護婦には8畳4間しか与えられず、劣悪な環境で、交代交代に負傷兵を看護した。
1896年(明治29年)12月25日、山本八重は日清戦争時の篤志看護婦活動が認められ、勲七等宝冠章を受ける。
1904年(明治37年)2月、日露戦争が勃発。新島八重は1905年(明治38年)、2ヶ月間にわたり、篤志看護婦として大阪にある予備病院で看護活動を行う。
1906年(明治39年)4月1日、新島八重は日露戦争時の篤志看護婦活動が認められ、勲六等宝冠章を受ける。
新島八重は赤十字の従軍看護婦として活動していたため、「日本のナイチンゲール」とも呼ばれている。ただ、誰が新島八重を「日本のナイチンゲール」と呼び始めたのかは分からない。
実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島八重と深井英五の奨学金のあらすじとネタバレ」へ続く。
コメント欄
いつも 拝見させていただいています ドラマのあらすじだけでなく 原作と比較されたり、実話と比較されたりと深く掘り下げられていて とても感心いたします新しいドラマのシーズン初めは お忙しいとは思いますが また これからもがんばってください。
応援のコメントをありがとうございます。多忙な日が続いていますが、できる範囲で頑張りたいと思います。