実話-新島八重と深井英五の奨学金

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島八重と深井英五の奨学金」です。

このページは「実話-新島八重は日本のナイチンゲールのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■深井英五と新島襄
新島襄の死後、同志社英学校の学生・深井英五(ふかい・えいご)が新島八重の元にやってきた。深井英五は同志社英学校でも群を抜く優秀な生徒で、特に英語の能力は卓越していた。

名前が英五(えいご)なので英語が得意だったという冗談ではなく、深井英五の英語力は、後に米国駐日大使のJ・グルーが「アメリカ人のように英語を話す日本代表だ」と絶賛するほどだった。

深井英五は1871年12月31日(明治4年11月20日)に群馬県高崎市で、高崎藩士・深井景忠の5男として生まれた。父の深井景忠は高崎藩の要職についていたが、深井家は明治維新ともに没落していた。

深井英五は小学生のとき、英語の重要性を主張していた小学校の校長・堤辰二の勧めにより、英語を勉強することにした。

そして、堤辰二の影響を受けた有志が1883年(明治16年)に私塾「猶興学館」を設立すると、深井英五は私塾「猶興学館」に入塾し、山下善之に英語を学んだ。

私塾「猶興学館」で実質的な校長を務めた教師・山下善之は、江戸遊学で英語を学んでいたが、深井英五が満足できるレベルの英語でなく、深井英五は失望していまう。

その後、しばらくして、深井英五は、西群馬教会の牧師・星野光多が説法の傍らで英語を教えている事を知り、西群馬教会へ通って牧師・星野光多から英語を学ぶようになった。

■西群馬協会の星野光多(ほしの・みつた)
牧師・星野光多は群馬県高崎市でキリスト教の伝道を行い、1884(明治17)年5月に西群馬協会を設立した。そして、伝道の一環として説法の傍らで小学生の高学年に英語を教えていた。

駅前留学が出来る現代とは違い、明治時代に地方でまともな英語を学べる場所は教会くらいしか無く、志ある者は英語を習うために協会へ通っていた。

牧師・星野光多が教会で英語を教えているというは話しは直ぐに広がり、キリスト教は嫌いだが英語は習いたいという小学生も教会の裏口から忍び込み、牧師・星野光多から英語を習うようになっていた。

しばらくすると、キリスト教は嫌いだと言っていた小学生の中に、洗礼を受けてキリスト教へ入信する者が現れるようになった。

深井英五も西群馬協会で牧師・星野光多から英語をならっているうちに、キリスト教に感化され、キリスト教に入信した少年の1人だった。

■深井英五と新島襄の奨学金
深井英五は、牧師・星野光多から英語を習ううちにキリスト教に感化され、1885年(明治18年)12月6日に西群馬協会で牧師・星野光多の洗礼を受けて、キリスト教に入信する。

群馬県にある西群馬協会で英語を学んでいた深井英五は非常に優秀な少年だったが、深井家は明治維新後に没落していたため、深井英五は経済的な理由から師範学校への進学を断念していた。

一方、新島襄はアメリカの知人・ブラウン夫人の要請を受け、故郷の群馬県で奨学金の対象者を探していた。

そこで、西群馬協会の牧師・星野光多が新島襄に深井英五を推薦した。こうして、深井英五は新島襄に才能を認められ、奨学金対象者として1886年(明治19年)に同志社英学校へ入学することになる。

深井英五は同志社英学校に入学した後、毎月1度、新島襄から手渡しで奨学金を受け取ったほか、奨学金以外にも個人的に様々な援助を受けていた。

深井英五は手渡しで奨学金を受け取ることで、新島襄と直接話す機会に恵まれ、新島襄から大きな影響を受けていた。

新島襄は多忙だったが、深井英五の才能を認めており、あえて手渡しにすることで、深井英五に接する時間を作っていたという。

このようななか、1890年(明治23年)1月23日に新島襄が死んだため、深井英五は奨学金の件で新島八重の元を訪れたのである。

深井英五が新島八重に、奨学金の継続について尋ねると、新島八重は「そのことは襄から聞いています」と言い、新島襄の死後も深井英五に学費の援助を続けた。

こうして、深井英五は引き続き奨学金を受け取ることができ、無事に同志社を卒業することが出来たのである。

■深井英五のその後
深井英五は同志社英学校へ入学するさい、「同志社を卒業しら牧師になる」という約束で、西群馬協会の有志から資金援助を受けていた。

しかし、深井英五は同志社英学校を卒業した後、牧師にはならかった。資金援助をした西群馬協会の有志は、深井英五が別の道に進んだことを大いに悲しんだ。

深井英五は同志社英学校を卒業後、新教神学校へ進んだが、キリストを神とする教えに疑問を持ち、新教神学校を退学して牧師の道には進まなかった。

新教神学校を退学した深井英五は無職を経て、同志社英学校出身の徳富蘇峰(徳富 猪一郎)が設立した国民新聞社へ入社。その後は紆余曲折を経て、1935年(昭和10年)には第13代日銀総裁に就任している。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島八重と松本五平の約束のあらすじとネタバレ」へ続く。