実話-新島八重と松本五平の約束
NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島八重と松本五平の約束」です。
このページは「実話-新島八重と深井英五の奨学金のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■新島八重と松本五平の約束
1899年(明治32年)7月、校僕として同志社に20年間尽くした小使(用務員)の松本五平(まつもと・ごへい)が死亡する。新島八重は生前の松本五平と約束しており、松本五平の死後、その約束を果た。
松本五平は信州の出身で、鶴岡藩の家老・堀家に仕え、草履取りをしていたが、居貞一の紹介により、1879年(明治12年)から同志社で賄方として働き始め、その後、小使(用務員)となった。
松本五平の仕事ぶりは真面目だったが、松本五平は英語が喋れないのに、英語だと言って、訳の分からない言葉で演説の真似事をするような変わり者だったため、生徒から「五平」と呼び捨てにされ、馬鹿にされていた。
また、松本五平は小柄で身長が120cm程度しかなかったため、「エスキモー」と呼ばれて生徒にからかわれていた。
(注釈:身長がネクタイの長さと同じだという吉本新喜劇の「池乃めだか」の身長は公称148cmなので、松本五平は相当小さいことが分かる。)
しかし、誰にでも平等に接する新島襄は、松本五平に対しても「五平さん、用事をお願いします」と丁寧に用事を頼んでいた。用務員の松本五平を「さん」付けで呼ぶのは新島襄だけだった。
このため、松本五平は新島襄を敬愛し、洗礼も受けた。そして、学生に呼び捨てにされると、「お前達は学が無いから呼び捨てにするんだ。新島先生を見習え」と言い返すようになっていた。
松本五平は新島襄の死後も同志社に仕えたが、やがて、松本五平も病床に伏した。松本五平は自分の命が長くないことを知ると、死んでも新島襄の近くに行きたいと思うようになっていた。
そこで、松本五平は人を介して、新島八重に「私が死んだら、どうぞ新島先生の墓の門の外に埋めてください。死んだ後も新島先生の門番をしとうございます」と頼んだ。
すると、新島八重は「貴方が亡くなったら、門の外ではなく、内に葬りましょう」と約束した。それを聞いた松本五平は安心して死んでいった。
松本五平の死後、新島八重は約束を守って、若王子山にある同志社墓地内の出入口の直ぐ側に松本五平の墓を建ててやった。新島八重が墓の敷地内に葬る約束をしたのは、松本五平だけであった。
同志社墓地に入ると、直ぐ右側に松本五平の墓があり、松本五平は今も同志社墓地の入口で、新島襄の墓守をしている。
■誰にでも丁寧な新島襄の伝説
同志社の生徒すら馬鹿にしていた用務員の松本五平を「五平さん」と呼んだように、新島襄は誰にでも丁寧な言葉を使った。
あまりにも丁寧すぎて、慇懃無礼と言われることもあるほど、新島襄は誰にでも分け隔て無く丁寧であった。
ある日、新島襄が台所で作業をしていると、客人が来た。新島襄が応対に出ると、客人は盲人だった。
すると、新島襄は「私は台所仕事していたため、割烹着を着ています。こんな格好で応対して申し訳ございません」と断ってから、客人に対応した。新島襄は目の見えない相手にもに対しても丁寧だった。
実話「新島八重の桜」の京都編「新島八重(山本八重)は借金王のあらすじとネタバレ」へ続く。