兼子重光(兼子常五郎)のwiki
NHK大河ドラマ「八重の桜」に登場する新島八重(山本八重)や同志社に関連する人物をあらすじとネタバレで紹介するネタバレwikiシリーズの「兼子重光(兼子常五郎)のwiki」です。
■兼子重光(かねこ・しげみつ)のwiki
兼子重光(かねこ・しげみつ/じゅうこう)は、安政5年8月5日(1858年9月11日)に福島県河沼郡勝常村で、兼子恒松の5男として生まれた。兼子重光は同志社卒業後に改名した名前で、元々の名前は兼子常五郎(かねこ・つねごろう)である。
兼子重光は会津の県民運動家であったが、一転して、同志社に入学して牧師となり、会津地方のキリスト伝道に貢献した人物である。
兼子常五郎は栃木師範学校を卒業後、会津で小学校の教員をしていた時に、福島県令の三島通庸(みしま・みちつね)の圧政に対抗するため、幼なじみの中島友八とともに自由党が主導する民権運動に加わった。
三島通庸は、経済発展における道路の重要性を認識しており、東北発展のためにトンネルや貫通道路などの建設を推進した県令(県知事)だが、県民に労役を強要したり、金品の納付を強要したりしたため、「鬼県令」「土木県令」として恐れられた。
1874年(明治7年)に酒田県(山形県)の県令に就任して暴政を振るった三島通庸は、、1882年(明治15年)には福島県令に着任し、福島県でも会津三方道路の建設を進め、県民に労役を貸すなどの悪政をしいた。
これに対して、福島県で勢力の誇る自由党の河野広中が中心となり、農民を扇動して民権運動を起こし、三島通庸の暴政に対抗した。
兼子常五郎は中島友八と共に自由党が扇動する民権運動に加わり、民権運動の中心的な存在となっていたが、警察による民権運動弾圧によよって逮捕されてしまう。
兼子常五郎は裁判で無罪となり釈放された後、山本覚馬に助けられて1885年(明治18年)に同志社に入学した。兼子常五郎が同志社に入学したのは、兼子常五郎が27歳のことである。
その後、元会津藩主・松平容保の長男・松平容大(まつだいら・かたはる)が同志社へ入学することが決まると、兼子常五郎は松平容大の教育係を任された。
松平容大は素行が悪く、奔放に育っており、1888年(明治21年)1月に大阪の遊郭へ行ったことが判明し、同志社を退学になりかけるが、兼子常五郎らが生徒33名の署名嘆願書を提出したため、松平容大は退学を免れたが、
しかし、1年後の1889年(明治22年)に父・松平容保から「徴兵の関係で学習院へ転校する」という申し出があり、松平容大は同志社英学校を退学して学習院へ入学した。
松平容大は誰の忠告も聞き入れなかったが、兼子常五郎の忠告だけは聞き入れたという。
兼子常五郎は同志社を卒業すると兼子重光と改名して、会津にある若松協会でキリスト教の伝道に従事し、会津伝道に貢献した。
NHK大河ドラマ「八重の桜」の登場人物一覧は『NHK大河ドラマ「八重の桜」のキャストのまとめ一覧』をご覧ください。
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