川崎正之助(川崎尚之助)のwiki

NHK大河ドラマ「八重の桜」に登場する実在人物の生涯をあらすじとネタバレで紹介するネタバレwiki編「川崎正之助(川崎尚之助)のwiki」です。

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■川崎正之助(川崎尚之助)のwiki
川崎正之助(かわさき・しょうのすけ)は1863年に生まれた。川崎正之助は出石藩(兵庫県豊岡市)の出身であるが、出生地などについては分らない。

川崎正之助の父親は出石藩の医師(町医者)とされているが、父親について詳しい事は分らない。父親が医師だったかどうかも疑わしい。

幼少期については不明だが、優秀だった川崎正之助は江戸に出て、大槻磐渓(おおつきばんけい)・杉田成卿(すぎたせいけい)・大木忠益(後の坪井為春)に師事し、蘭学や舎密(せいみじゅつ=理化学)を学んだでいる。

1856年、川崎正之助が大木忠益の塾に在席していたとき、2度目の江戸遊学で江戸に来ていた会津藩士・山本覚馬も大木忠益の塾に在席しおり、川崎正之助は山本覚馬と知り合う。

川崎正之助は非常に優秀な男で、山本覚馬は川崎正之助の才能を認めたという。

1856年、2度目の江戸遊学を終えた山本覚馬が会津に帰ると、会津藩校「日新館」に蘭学所が開設されることとなり、山本覚馬と南摩綱紀(なんま・つなのり)の2人が蘭学所の教授に就任した。

1857年、川崎正之助は、山本覚馬に招かれて会津を訪れる。川崎正之助は山本覚馬の推挙により、四口俸の給料で蘭学所の教授に要請されていた。

しかし、川崎正之助は給料を辞退し、山本覚馬の自宅に寄宿しながら、蘭学所の教授を務めた。会津藩はこれを喜び、川崎正之助に若干の金を与えた。

川崎尚之助は非常に優秀で、洋書をよく読み、直ちにこれを応用し、合図に必要なラッパを製造したり、銃や大砲や薬莢を製造するなどした。

その後、会津藩の改革の一環として、蘭学所の砲術科が学校奉行の管轄から、軍事奉行の管轄へと移って砲術部門となる。これにともない、川崎正之助も軍事奉行の管轄下となったようである。

■会津藩士への登用
会津藩主・松平容保が京都守護職に就任して、倒幕派の長州藩を京都から排除すると、長州藩が京都へ攻め入り、1864年8月20日に「蛤御門の変(禁門の変)」が起こる。

京都で勤務している会津藩士・山本覚馬は「蛤御門の変」において、大砲隊を指揮して蛤御門に布陣し、攻めてくる長州藩を退けた。

また、山本覚馬は大砲隊を指揮して、御苑内の鷹司邸に立て籠もった長州兵を排除するなどの功績を挙げた。

この結果、山本覚馬は大砲方頭取13人扶持へと出世し、会津藩も大砲の重要性を認識するようになる。

会津藩には洋式銃と大砲の両方が扱える有能な砲術家は、山本覚馬と川崎正之助の2人しかいなかったが、川崎正之助は会津藩士でなかったため、「蛤御門の変」には参加しておらず、会津に留まっていた。

その後、大砲の重要性を認識した会津藩は、川崎正之助を会津藩士に登用する。この裏には、山本覚馬の強い推挙があったとされている。

■新島八重との結婚
1865年ごろ、山本家に寄宿していた川崎正之助は、山本覚馬の娘・山本八重(後の新島八重)と結婚する。

川崎正之助が山本八重と結婚したとき、兄の山本覚馬は京都に居たが、川崎正之助の会津藩士登用にも、山本八重との結婚にも、山本覚馬の強い推挙があったと考えられる。

1864年に起きた「蛤御門の変(禁門の変)」の後に川崎正之助は正式な会津藩士となっており、これは山本八重との結婚とワンセットだった可能性がある。

なお、以前は「川崎正之助は山本八重と正式に結婚してない」という説もあったが、山本八重のことを「川崎尚之助妻」と書いている資料が見つかっているため、2人は正式に結婚していたことが判明している。

■川崎正之助から川崎尚之助へ
山本覚馬の招きにより会津を訪れた川崎正之助は、初代会津藩主・保科正之と同じ「正」の字を使用することを避け、「正」の代わりに「尚」の字を当て、名前を「川崎尚之助」と改めた。

川崎正之助が「川崎尚之助」へと名前を改めた時期は不明だが、「会津藩士になることを切っ掛けに改名した」という説が有力なので、これより下は川崎尚之助と表記する。

■川崎尚之助の戊辰戦争
薩摩藩・長州藩を中心とした新政府が樹立し、会津藩と庄内藩の両藩は朝敵となると、東北諸藩からなる「奥羽越列藩同盟」が成立する。

会津藩は、東北諸藩で結成した「奥羽越列藩同盟」と共に白河城で新政府軍を迎え撃つが、新政府軍にあっさりと白河城を奪われてしまう。

戊辰戦争の切っ掛けとなる「鳥羽・伏見の戦い」で、大砲奉行の林権助は戦死し、山本八重の弟・山本三郎も戦死している。山本覚馬も薩摩兵に捕らえられて薩摩藩邸に幽閉されており、会津藩に有能な砲術家は川崎尚之助だけとなっていた。

白河城が奪われると、川崎尚之助は炙り山に巨大大砲を設置して、新政府軍を迎撃する作戦を立案した。

それは、会津中の寺の鐘を溶かして製造した砲身6.4メートルの大砲2門を炙り山に設置し、新政府軍を迎撃する作戦であった。

しかし、新政府軍の進軍は早く、母成峠を突破して一気に若松城まで迫ったため、この実現しなかった。

■若松城籠城戦と川崎尚之助
1868年(慶応4年)、新錬隊の隊長・土屋鉄之助の発案により、農民や町民から兵を募集して、敢死隊(かんしたい)が編成された。

敢死隊は奇勝隊などとともに十六橋を爆破する任務についてが、石橋で出来た十六橋は簡単には壊れなかったため、新政府軍の薩摩藩士・川村与十郎に襲撃され、十六橋を奪われてしまう。

敢死隊は戸ノ口原の本陣まで退き、戸ノ口原で新政府軍を迎え撃った。このとき、隊長の小原信之助が戦死したため、川崎尚之助が敢死隊の隊長となる。

川崎尚之助は敢死隊を率いて新政府軍と戦うが、洋式銃を装備した新政府軍を止めることが出来ずに敗走。そして、川崎尚之助らは佐川官兵衛らと合流して若松城へと退却した。

若松城へ入った川崎尚之助は敢死隊を率いて若松城の豊岡神社を守る。豊岡神社の砲台には四斤山砲があり、小田山に布陣する新政府軍に向けて砲撃を加えた。

川崎尚之助の砲撃は正確で、一時は小田山の新政府軍を黙らせた程であったが、会津藩は武器弾薬の準備が整っていなかったため、四斤山砲の弾は尽きてしまう。

川崎尚之助は最後の2発を小田山の新政府軍に打ち込み、2発とも命中させ、小田山から砲撃してくる新政府軍を沈黙させた。

■若松城の落城
頼みの綱としていた奥羽越列藩同盟も次々と新政府軍に降伏し、会津藩は孤立する。若松城の南方に確保していた食糧補給路も断たれ、1868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)に会津藩は降伏した。

会津藩の降伏後、会津藩士は会津降人となり、若松城の城内に居た藩士は猪苗代で謹慎し、城外に居た者は塩川村で謹慎することとなる。

これまでは「川崎尚之助は会津藩士ではなかったため、降伏の前に城を出た」とされているが、会津藩士の名簿「御近習分限帖」に、川崎正之助(河崎尚之助)の名前が記録されており、川崎尚之助は大砲方頭取13人扶持の会津藩士だったことが判明している。

会津藩士となっていた川崎尚之助は、若松城で籠城した他の会津藩士と同様に猪苗代で謹慎した後、東京へと身柄が送られ、東京で謹慎した。

■山本八重との離婚
川崎尚之助は妻・山本八重と戊申戦争中に離婚したとされているが、会津藩降伏後の資料に山本八重は「川崎尚之助妻」と表記されていることから、若松城落城時には離婚していないことが判明している。

その後に2人が離婚したという資料は見つかっていないが、川崎尚之助は死亡したとき、「相続人無し」として処理されており、山本八重の名前は出てこない。

■川崎尚之助と斗南藩
1869年12月5日(明治2年11月3日)、松平容保の子・松平容大は家名存続が許さ、青森県東部に3万石を拝領し、斗南藩(となみはん)を立藩する。

1870年2月5日(明治3年1月5日)、会津藩士の謹慎が解け、会津藩士は新天地となる斗南藩を目指した。

川崎尚之助は謹慎が解けると、一時、京都に滞在した後、斗南藩へ向かったため、斗南藩入りが遅れている。川崎尚之助が斗南藩へ到着したのは1870年10月のことだった。

■川崎尚之助の裁判
斗南藩は3万石という名目であったが、斗南藩は不毛の地で実質は3万石以下だった。実質30万石の会津藩と比べると、10分の1以下の石高となり、斗南藩へ移った会津藩士は飢餓に苦しんだ。

斗南藩に入った川崎尚之助は、「開産掛」として斗南藩士・柴太一郎とともに商取引で利益を上げることを命じられ、貿易が盛んな北海道・函館へと渡った。

そして、川崎尚之助は函館で斗南藩士の米座省三(よねざ・しょうぞう)と知り合い、米座省三の紹介でデンマーク商人デュークと知り合った。

デンマーク商人デュークは広東米の取引をしており、川崎尚之助は斗南の民の飢えをしのぐため、デュークから広東米を購入することにする。

ただ、斗南藩には購入資金が無いため、この取引は、斗南藩が栽培している大豆の収獲を担保とした先物取引で行われ、商談は成立した。

ところが、米座省三が広東米の手形を担保にブランキントン商会から借金をして逃走してしまい、約束の広東米が受け取れなくなったのである。

その後の調べで、米座省三は会津藩士でも斗南藩士でもなく、信州出身の出入り商人だったことが判明したため、川崎尚之助はブランキントン商会を相手取り、手形返還訴訟を起した。

一方、デンマーク商人デュークは約束の大豆が引き渡されないため、川崎尚之助・柴太一郎・米座省三の3名を詐欺罪で訴えた。

このようななか、逃走中の米座省三が東京で逮捕された。そして、米座省三が会津藩士でも斗南藩士でもないことが証明されると、手形問題は米座省三の単独犯として処理され、手形は川崎尚之助らの元に戻ってきた。

川崎尚之助は取り戻した手形でデンマーク商人デュークから広東米を受け取ったが、斗南藩は大豆の栽培に失敗しており、大豆の代わりに金銭を払うことになる。

川崎尚之助はデンマーク商人デュークから受け取った広東米を売却して支払いに当てるが、ブランキントン商会から手形を取り戻すのに時間がかかったため、受け取った広東米は古米になっており、売却しても代金の一部しか支払えなかった。

デンマーク商人デュークは斗南藩に残金の支払いを求めたが、斗南藩は「藩は取引を命じていない」と関与を否定し、責任を川崎尚之助・柴太一郎に押しつけた。

すると、川崎尚之助は「藩命はなかったが、飢餓に苦しむ大勢の人を見捨てておけず、独断で取引を行った」と供述し、全ての罪を背負った。

こうして、川崎尚之助・柴太一郎・米座省三は刑事事件として訴えられた。外国人が関係している裁判だったため、裁判は東京で行われることとなり、川崎尚之助らは東京へ移送された。

川崎尚之助は東京の身元引受人の元で不遇な日々を過ごしたうえ、身元引受人もトラブル起こし、身元引受人が3度も変わるという事態に遭った。

戊申戦争中に会津藩へ砲術修業に出て川崎尚之助から砲術を習っていた元米沢藩士の小森沢長政は、川崎尚之助が不遇な生活を送っている事を知り、わずかながら援助したという。

■山本八重との再会(逸話)
川崎尚之助が鳥越明神に住み、2人目の身元引受人の元で生活していたとき、妻の山本八重と再会したという逸話がある。これは逸話であり、2人が再会したことを証明する資料は無い。

妻の山本八重は会津藩戊申戦争後、鳥羽伏見の戦いで死んだと伝わっていた兄の山本覚馬が京都府顧問をしていることを知り、山本覚馬を頼って京都へ移住していた。

そして、京都府大参事(副知事)の槇村正直が小野組転籍事件で逮捕されたため、山本覚馬と山本八重は槇村正直の釈放を明治政府の要人と交渉するため、東京に一時滞在した。

山本八重が東京に滞在していたのは、川崎尚之助が2人目の身元引受人に引き取られ、鳥越明神に住んでいた時のことである。

通説によると、このとき、山本八重は川崎尚之助の噂を聞きつけ、川崎尚之助と再会したとされている。

■川崎尚之助が死去
裁判のために東京で生活していた川崎尚之助は、食べるものにも困るほどの日々を送っており、体調を悪化させていた。

そのようななか、身元引受人が3人目の根津親徳に代わり、根津親徳が1875年(明治8年)2月に川崎尚之助を東京医学校病院へ入院させる。

川崎尚之助は入院したものの、重い肺病にかかっており、1875年(明治8年)3月20日に死去した。享年39歳だった。死因は慢性肺炎だったとされている。

川崎尚之助は江戸に不遇の生活を送り、2つの狂歌を残した。

「このころは、金のなる子の、つな切れて、ぶらりとくらす、とりこえの里」
「今日はまだ、かてのくばりは、なかりけり、貧すりゃドンの、音はすれども」

■川崎尚之助の死後
川崎尚之助の遺体は、3人目の身元引受人・根津親徳が引き取り埋葬した。通説によると、川崎尚之助は称福寺に埋葬されたとされているが、定かではない。

一方、川崎尚之助が訴えられた裁判は、川崎尚之助に相続人が居ないため、川崎尚之助の死をもって終結した。

相続人の調査で山本八重の名前は出ていない。離婚をしたという資料は無いが、川崎尚之助は山本八重に巨額の負債を背負わせないため、何らかの方法で離婚していた、とも言われている。

山本八重の生涯については『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。