川崎尚之助と内藤新一郎と小森沢長政

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる山本八重(新島八重)の生涯をあらすじとネタバレで紹介する実話「新島八重の桜」の会津編「川崎尚之助と内藤新一郎と小森沢長政のあらすじとネタバレ」です。

このページは「会津藩の軍制改革-長沼流兵法の終演のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■川崎尚之助と内藤新一郎と小森沢長政
1868年、会津藩が軍制改革を行い、フランス式の軍隊編成を進めていたころ、米沢藩から来た米沢藩士・内藤新一郎や小森沢長政が会津藩士・川崎尚之助から砲術を学んでいた。

火縄銃は下級藩士の武器という風潮があり、火縄銃は軽視されていたが、米沢藩は直江兼続が火縄銃を推奨し、火縄銃を製造していた関係で、東北では唯一、米沢藩だけが洋式銃の導入が進んでいた。

しかし、米沢藩が進んでいたのは洋式銃だけであり、大砲については他藩同様に後れを取っていた。

一方、会津藩は、洋式銃の導入を主張した山本覚馬が禁足処分を受けたように、火縄銃は下級兵士の武器として扱われ、洋式銃の導入が遅れていた。

しかし、会津藩は蝦夷警備などを務めたため、大砲の必要性は認めており、大砲の導入が進んでいた。

このため、米沢藩は米沢藩士・内藤新一郎や小森沢長政を会津藩の砲術修業に出していた。さらに、新政府軍との戦争の準備のため、米沢藩士43名を追加で会津藩へ鉄砲修業に出したのである。

この米沢藩士43名が会津にやってきたのは、1868年6月17日(慶応4年閏4月27日)のことであった。

そして、内藤新一郎ら米沢藩士に砲術を指南したのが、会津藩士の川崎尚之助と山本権八の2人だった。

山本覚馬は京都の薩摩藩邸に幽閉されているため、居ない。山本権八は軍制改革によって年齢別に編成された「玄武士中隊」の伊予田図書隊に配属されたため、実質的には川崎尚之助が1人で内藤新一郎らに砲術を指南したものと思われる。

やがて、川崎尚之助から砲術を学ぶ米沢藩士は、戦局の悪化にともない、米沢本土防衛のため、米沢藩へと帰って行くが、内藤新一郎や小森沢長政ら数名は連絡役として会津に残り、山本家に寄宿していた。

内藤新一郎らは連絡役として戦争直前まで山本家に寄宿していたが、若松城籠城戦の当日の1868年10月8日(慶応4年8月23日)に山本家を出て、米沢へと戻っている。

なお、山本八重が戊申戦争後に米沢藩へ出稼ぎに行き、1年間ほど内藤新一郎の元に身を寄せているのは、内藤新一郎が川崎尚之助から砲術を教わり、山本家に寄宿していた縁である。

また、川崎尚之助は戊申戦争後に裁判で訴えられ、東京で食事に不自由するほどの不遇な生活を送ることになる。このとき、川崎尚之助を支援したのが、砲術の弟子・小森沢長政だったのである。

実話「新島八重の桜」の会津編「会津藩の平松武兵衛のあらすじとネタバレ」へ続く。