新島八重の生涯

NHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重(山本八重)の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の生涯」です。

■新島八重の誕生
山本八重(後の新島八重)は、江戸時代末期の1845年12月1日、会津藩(福島県)の城下・米代三ノ丁にある武家屋敷で山本家の3女として生まれた。

父親の山本権八(39歳)は会津藩の上級藩士の「上士黒紐席」で、西洋の砲術を専門とする高島流砲術の砲術師範だった。母の山本佐久(37歳)は先見の明があり、非常に聡明な人だった。

母の山本佐久は、武田信玄の名軍師・山本勘助の子孫とされているが、これは創作の可能性が大きい。

■新島八重の子供時代
会津藩は教育に力を入れていたが、女性に対する教育は行っておらず、山本八重は父・山本権八や兄・山本覚馬から会津藩の教え「什の掟」や「日新館童子訓」を学んだ。

山本八重は男勝りに育ち、石投げや駆けっこでは、男の子にも負けなかった。13歳の時には米4斗俵(60kg)を肩まで4回も上げ下げできたほどの怪力だった。

山本八重は他の会津藩士の女子と同じように、裁縫や薙刀を学んだが、砲術家の家に生まれたため、砲術に興味を持った。

山本八重はメキメキと砲術の腕が上達し、戊辰戦争が始まった24歳の時には白虎隊に砲術を指南するほどにまで成長していた。父の山本権八が「この子が男のだったら」と悔やんだ程だった。

■新島八重の結婚(1回目)
山本八重は19歳のとき(推定1865年)、山本家に寄宿していた日新館の教授・川崎尚之助(川崎尚之助=27歳)と結婚する。

(川崎尚之助については「川崎正之助(川崎尚之助)のwiki」をご覧ください。)

結婚を切っ掛けに父親・山本権八から砲術の訓練を禁止された山本八重であったが、「鳥羽伏見の戦い」によって会津は朝敵となった事を受け、戦争に備えて砲術の訓練を再開した。

このとき、山本八重は、山本家に砲術訓練に来ていた白虎隊に砲術を指南した。

年齢が1歳足らずに白虎隊に入れなかった伊東悌次郎(15歳)は、山本八重から鉄砲の撃ち方を学んだ後、年齢を誤魔化して白虎隊(士中二番隊)に入った。

新政府軍が会津領内に侵攻してくると、伊東悌次郎は白虎隊(士中二番隊)の一員として、戸ノ口原で新政府軍と戦ったが、白虎隊(士中二番隊)の前戦は空しく、敗走した。

敗走した白虎隊(士中二番隊)の16名は飯盛山へ落ち延びて自害するが、伊東悌次郎は飯盛山へたどり着く前に戦死した。

■新島八重の入城
1868年10月8日(慶応4年8月23日=籠城1日目)、台風の影響で雨が降りしきるなか、会津若松城の城下町に早鐘が鳴り響く。早鐘は「城に逃げ込め」という会津だった。

山本八重は戦死した弟・山本三郎の形見の紋付き袴を着て、腰に刀を挟むと、最新式のスペンサー銃を担いで、母・山本佐久と姪(山本覚馬の娘)「山本峰(みね)」と嫂(覚馬の妻)「山本うら(樋口うら)」を連れて若松城へ入城した。

若松城へ入城した山本八重は、城壁へ駆け寄ると、スペンサー銃を構えて、若松城へと迫る新政府軍の兵を次々と撃ち殺し、新政府軍の1番手・土佐藩の軍を追い返した。

午後からは、土佐藩に変わって薩摩藩の大山巌(おおやまいわお)が、遠方から大砲隊を指揮して若松城を砲撃した。

会津藩は大山巌の砲撃に苦しんだが、山本八重がスペンサー銃で大山巌の右大腿部を撃ち抜き、新政府軍を撃退した。

籠城戦を想定していなかった会津藩は、主力部隊を全て国境警備に展開しており、若松城は老兵ばかりだったが、山本八重の活躍で籠城初日の危機を乗り切った。

山本八重は夜襲や砲撃で新政府軍を苦しめたほか、会津藩主・松平容保の要請に応じて、新政府軍が打ち込んできた大砲の弾を分解して、その仕組みを理路整然と説明してのけた。

■新島八重と会津藩の降伏
東北諸藩で結成した奥羽越列藩同盟は、寝返りや裏切りにより、空中分解し、奥羽越列藩同盟の中心となっていた仙台藩や米沢藩も新政府軍に降伏してしまう。

若松城の南方に確保していた食糧補給路も新政府軍に奪われ、完全に孤立した会津藩は1868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)に降伏して開城する。

山本八重はこの日の夜、「明日の夜は、何国(いづこ)の誰か、ながむらん、なれし御城に、残す月影」という歌を詠み、若松城の雑物蔵に歌を刻んだ。

■敗戦後の新島八重
会津藩士の川崎尚之助は猪苗代で謹慎したが、山本八重は自由の身となり、夫婦は生き別れとなる。その後、山本八重ら家族は、山本家の使用人だった者の家に世話になった。

1870年(明治3年)11月ごろ、山本八重ら家族は、仙台に住む米沢藩士・内藤新一郎の元へ出稼ぎに行く。

内藤新一郎は、川崎尚之助の砲術の弟子で、戊申戦争時に山本家に寄宿していた米沢藩士の1人である。

そして、山本八重が米沢の内藤新一郎の自宅に身を寄せ居ていたとき、死んだと伝わっていた兄・山本覚馬が京都府で顧問をしていることが判明し、兄・山本覚馬を頼って京都府へ向かった。

しかし、山本覚馬の妻「山本うら」は離縁を望んで仙台に残り、会津藩が青森県東部で立藩した斗南藩へと向かった。

■新島八重が京都へ移住
1971年(明治4年)10月、山本八重は京都へ到着し、兄の山本覚馬と再会する。山本覚馬は変わり果てており、盲目となったうえ、脊髄を痛めて足を悪くしていた。さらに、山本覚馬は小田時栄という少女と暮らしていた。

山本八重が兄妻「山本うら」が離縁を望んで仙台に残った事を伝えると、山本覚馬は妻「山本うら」と離婚して、小田時栄と結婚した。

山本覚馬の自宅で住み始めた山本八重は、山本覚馬の勧めで女学校「新英学級及女紅場」に通うようになり、その後、新英学級及女紅場で舎監・教導試補として働き始める。

■新島襄との出会い
京都で暮らし始めた山本八重は、兄・山本覚馬の勧めで聖書を習い始めており、宣教師ゴートンが滞在する旅館を訪れたとき、玄関で靴を磨いていた準宣教師・新島襄と出会う。

その後、宣教師ゴートンが大阪へ帰るため、山本八重は新島襄から聖書を習うようになる。

出会ってから半年後の1875年(明治8年)10月、山本八重は新島襄と婚約する。

1876年(明治9年)1月2日、山本八重は宣教師デイビスから洗礼を受け、翌1月3日には新島襄と結婚し、新島八重となる。

■新島八重と同志社
1876年(明治9年)2月、山本八重は自宅で私塾を開く。生徒は子供3人の小さな私塾だったが、直ぐに生徒が辞めてしまい、私塾は自然消滅する。

新島八重はこの私塾を「同志社女子学校の祖」としているが、同志社の年表に新島八重が開いた私塾の事は掲載されていない。同志社の年表に登場するのは、その後に宣教師スタークウェザーが開いた私塾(同志社女子塾)からである。

1876年(明治9年)10月、宣教師スタークウェザーがディビス邸で同志社女子塾を始める。新島八重も教鞭を執る。

1877年(明治10年)4月、同志社分校女紅場が開校し、新島八重は小笠原式礼法などを教える。

1878年(明治11年)9月、同志社分校女紅場が同志社女学校へと改称し、洗礼を受けた母・山本佐久が舎監として働くようになる。

新島八重と山本佐久の親子は宣教師スタークウェザーと対立し、宣教師スタークウェザーを同志社女学校から追い出した。

山本八重らと宣教師スタークウェザーとの対立により、同志社女学校は在日宣教師が全面撤退するという廃校の危機を迎えたが、大澤善助らの協力によって同志社女学校を再開することが出来た。

この事件の後、母・山本佐久は同志社女学校を辞めた。山本八重については詳しい事は分らないが、山本八重も同志社女学校を辞めたと思われる。

■新島襄の死去
新島襄は若い時に麻疹にかかって以降、様々な病気に悩まされていた。結婚を諦めていた新島襄が、新島八重と結婚したのも、布教のためには体調を管理にしてくれる女性が必要だと思ったからだった。

新島襄は新島八重との結婚により、体調が良くなったが、それでも様々な病気に悩まされており、新島八重は結婚生活の3分の1を新島襄の看病に当てている。

新島襄は大学設立のための寄付集めの関東遊説中に倒れ、神奈川県大磯町にある旅館「百足屋」で静養していたが、1890年(明治23年)1月23日に死去する。

新島襄は脳卒中による突然死で新島八重に別れを告げられないことを心配していたが、新島八重に最後を看取られながら死ぬ事ができた。

■新島襄の死後
新島襄の死後、新島八重は赤十字の社員となる。赤十字の社員は、会社から給料を貰う社員(労働者)ではなく、赤十字に年間30円以上を寄付した者に与えら得る称号である。

新島八重は赤十字の活動の一環として、戦争看護婦として活躍。日清戦争においては従軍看護婦(篤志看護婦)を率いて、広島県にある陸軍予備病院で4ヶ月にわたり負傷兵を看護した。

また、日露戦争においては、新島八重は従軍看護婦(篤志看護婦)を率いて、大阪の予備病院で2ヶ月間にわたる看護活動を行った。

この結果、新島八重は勲七等宝冠章・勲六等宝冠章を受け、女性の社会進出に貢献する。

■新島八重と茶道
新島八重は赤十字の社員となる一方で、裏千家の13代千宗室(円能斎)に師事し、本格的に茶道を始めた。

1907年(明治40年)、新島襄は方々に土地を購入していたが、新島襄の死後に新島八重が全ての遺産を食いつぶし、残るは新島邸だけとなっていた。

これを見かねた徳富猪一郎(徳富蘇峰)らが新島邸の保護を同志社に働きかけた。その結果、新島八重に新島邸を寄付させ、その代償として同志社は新島八重が死ぬまで毎年600円を支給することになった。

こうして、新島八重は死後に新島邸を寄付する代償として、新島邸に住みながら死ぬまでの生活費が保障されたが、新島邸の保存方法を巡り同志社と対立したほか、再三にわたり同志社に借金を申し込んで同志社を困らせた。

度重なる借金の申し込みに困った同志社の理事・大澤善助は、新島八重に「娘に茶道を教えてください。月謝を払います」と言い、茶道の教師を頼んだ。

こうして、新島八重は新島邸の1室に茶室「寂中庵」を開き、女性に茶道を教えるようになった。また、茶会を開いて、多くの人と交流を計るようになった。

■新島八重の改宗疑惑
新島八重は、茶会を通じて建仁寺の和尚・竹田黙雷(たけだもくらい)と知り合った。

新島八重は禅に安らぎを求め、和尚・竹田黙雷に教えを請うたが、竹田黙雷は「貴女は耶蘇(キリスト教)で固まっているから、教えることは無い。でも、遊びに来なさい」と答えた。

こうして、新島八重は提唱日に建仁寺へ通うようになり、竹田黙雷の話を聞くようになった。

竹田黙雷の元へ通うようになった新島八重は、やがて、和尚・竹田黙雷から袈裟と安名「寿桃大師」とを貰った。袈裟や妙案には卒業証書のような意味があるため、新島八重に改宗疑惑が浮上し、新聞にも取り上げられた。

しかし、山本八重は「ひとつの宗教に籍をおいているからといって、他の宗教のお話を聞いてはいけないということにはならないでしょう」と答えて、改宗疑惑を相手にしなかった。

■新島八重の晩年
新島八重は晩年、茶道と禅に力を入れた。同志社英学校の生徒から「新島のおばあちゃん」と慕われ、故郷の会津とも交流を持ち、会津高等女学校の修学旅行生を世話するなどした。

1924年(大正13年)12月8日、貞明皇后が同志社女学校に行啓した際には、新島八重はこれまでの功績が認められ、単独で拝謁が許された。

1928年(昭和3年)9月28日、会津藩主・松平容保の孫娘・松平節子が昭和天皇の皇弟・秩父宮雍仁親王と結婚し、秩父宮勢津子となる。

松平節子が秩父宮雍仁親王と結婚したことにより、戊辰戦争で「逆賊」「朝敵」となった会津藩の汚名をそそぐことが出来た。新島八重はこのとき、「万歳、万歳、万々歳」と喜んだという。

新島八重は老齢になっても会津藩の教え「日新館童子訓」を暗唱することができ、キリスト教の信者になっても、会津の教えを捨てていなかった。

■新島八重の生涯の終演
80歳を超えてもまで精力的に活動していた新島八重であったが、1931年(昭和6年)8月8日に風邪引いて以降、体調を悪化させていた。

しかし、新島八重が体調を悪化させたくらいで大人しくしているはずもなく、1932年(昭和7年)4月には米寿祝いの茶会に出席した。

新島八重は1932年6月13日に行われた茶会にも出席したが、帰宅後に倒れて、翌日の1932年6月14日に自宅で激動の生涯を閉じた。新島八重の死因は急性胆嚢炎で、享年87歳であった。

新島八重の葬儀は、同志社葬として同志社の栄光館で行われ、2000人が参列した。

新島八重の墓は、新島襄の隣に建てられた。新島八重の墓標の「新嶋八重之墓」の文字は、同志社英学校時代に新島八重のことを「鵺(ぬえ)」を批判した徳富猪一郎(徳富蘇峰)の書である。

徳富猪一郎(徳富蘇峰)は、同志社英学校時代は新島八重と対立したが、新島襄の死を切っ掛けに新島八重と和解し、以降は新島八重の理解者となっていた。

徳富猪一郎(徳富蘇峰)によると、新島八重の生涯は「奉仕の人」だったという。

新島八重(山本八重)のあらすじとネタバレは「実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

コメント欄

面白く読ませていただきました。
今から京都で八重の足跡を辿ってきます。

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