同志社を潰せ!槇村正直と寺島宗則と徴兵制度

NHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重(山本八重)の関連情報「同志社を潰せ!槇村正直と寺島宗則と徴兵制度」のあらすじとネタバレです。

■同志社と槇村正直
1875年(明治8年)、新島襄や山本覚馬が同志社英学校の設立準備を進めたが、順風満帆に事は進まず、京都府の大参事(副知事)・槇村正直から嫌がらせを受けたことになっている。

しかし、同志社を潰そうとした犯人は槇村正直ではなく、本当の黒幕は外務卿(外務大臣)の寺島宗則である。

そもそも、槇村正直はキリスト教にも理解を示しており、大阪が拒否したキリスト教学校の設立を許可した人物である。

女功場で働いていた新島八重を解雇したのは槇村正直だが、これは新島八重に責任がある。

■新島八重の解雇事件の真相
山本八重(後の新島八重)は、新島襄から聖書を習うようになっており、新英学校及女紅場で働いていた山本八重は生徒に聖書を説くようになっていた。

仏教色の強い京都では、キリスト教が受け入れられず、新英学校及女紅場で聖書を説く山本八重は異様な存在だった。

そこで、保護者が生徒を辞めさせようという動きが起きた。生徒が辞めれば新英学校及女紅場が運営できなくなるため、槇村正直が山本八重を解雇したのである。

したがって、槇村正直が嫌がらせで山本八重を解雇したというわけでは無い。

外務卿(外務大臣)の寺島宗則は同志社を潰そうとしたが、これも嫌がらせなどではなく、職務を全うしただけである。

■同志社を取り巻く環境
明治時代に入り、江戸時代から続いていた鎖国は終わったが、外国人には規制があった。

たとえば、日米修好通商条約により、外国人は開港場(神戸などの貿易港)から10里(約40km)から出ることが禁じられており、許可の無い外国人は内陸部に入ることは許されなかった。

また、外国人が日本人を雇用するような事も禁じられていた。外国人宣教師が教師になること(教師の兼任)も禁じられていた。

文部省は規則で「外国人宣教師と教師の兼任」を禁じていたが、この時の文部大輔(文部大臣)は田中不二麿だったため、同志社は特例で外国人宣教師を教師として雇うことが出来た。

(注釈:新島襄は岩倉使節団時代に、田中不二麿とヨーロッパの教育制度を視察しており、旧知の仲だった。)

ただ、知り合いといえど、新島襄と田中不二麿の話し合いは3日間に及んでおり、「京都の人を刺激しない」という条件付きで、外国人宣教師を教師として雇用することが許可された。

しかし、外務卿(外務大臣)の寺島宗則は新島襄の知り合いでは無かったので、再三にわたり同志社に立ちはだかることとなる。

■同志社の在日宣教師の学校
同志社が外務卿(外務大臣)の寺島宗則に睨まれた原因は、同志社の財務にある。

表向きには、新島襄がアメリカで5000ドルの寄付を集めて同志社を設立したことになっているが、5000ドルはアメリカの宗教団体「アメリカン・ボード」の理事が寄付したものであり、実質的には同志社はアメリカン・ボードのお金で建てられた。

さらに、在日宣教師の給料も新島襄の給料も同志社英学校の運営費もアメリカン・ボードが支払っていたため、実質的には同志社英学校はアメリカン・ボードとみなされていた。

明治初期は外国人が日本人を雇用する事が禁止されていたが、外国人が日本人の名義で会社を設立し、日本人を雇用する悪質な外国人が増えていた。

このため、外務卿(外務大臣)の寺島宗則は、この外国人による名義偽装の取り締まりに乗り出したのである。

同志社英学校は、名義上は新島襄や山本覚馬が設立したことになっているが、アメリカンボードの資金で設立・運営されており、実質的にはアメリカン・ボードの学校と考えられていた。

このため、外務卿(外務大臣)の寺島宗則に睨まれていた同志社英学校は、度々、京都府から抜き打ち視察を受けるなどした。

やがて、外務卿(外務大臣)が変わったため、廃校の危機は免れたが、同志社がアメリカン・ボードに依存していることは変わっていなかった。

同志社英学校は退学者が多く、経営が苦しいため、その後もアメリカン・ボードに依存するという根本的な問題は解決しなかった。

■同志社と徴兵問題
同志社英学校は1875年(明治8年)に開校以来、順調に入学者数を増やしていったが、退学者も増えていた。1886年(明治19年)は入学生184人に対して、卒業生は3人、退学者は98人だった。

同志社英学校に退学者が多い理由は徴兵制度だった。明治政府が徴兵猶予の特例を与えたのは、官公立学校だけだった。

国からの資金援助の無い私学の同志社英学校は、徴兵猶予の特権がえられないことによる退学者増加の影響で、苦しい経営を強いられていた。

これは、東京の3大義塾と言われる、福沢諭吉の「慶應義塾学校」、近藤真琴の「攻玉塾」、中村正直の「同人社」も同様で、3大義塾も私塾であったため、兵役免除の特権は受けられず、退学者の続出に悩まされた。

その結果、中村正直の私塾「同人社」は兵役に伴う生徒数の減少により、1887年(明治20年)に廃校となっている。

1889年(明治22年)、明治政府は官公立学校だけでは人材不足になってきたため、私塾にも条件付きで徴兵猶予の特例を適用した。

しかし、経営難の私塾に非常に厳しい条件だったため、私塾で初めて徴兵猶予の特例を受けたのは、1896年(明治29年)9月の應義塾であった。

そして、同志社英学校が徴兵猶予の特権を受けたのは、1898年(明治31年)3月のことである。

■同志社と徴兵猶予の特例
明治維新後、天皇制国家主義思想が急速に発達した影響で、キリスト教学校は敵視されていた。

同志社英学校は、アメリカの宗教団体「アメリカン・ボード」の資金で設立・運営されていたため、アメリカン・ボードの学校とみなされていた。

徴兵免除の特例を得るための条件は、財務や教師などにも及んでおり、同志社英学校が徴兵免除の特例を得るためには、アメリカン・ボード(キリスト教)との決別が必要だった。

同志社英学校では設立当初より、日本人教師と在日宣教師(外国人教師)との対立が続いていた。日本人教師と在日宣教師とを折衝していた新島襄の死ぬと、仲裁できる人間が居なくなり、対立は激化ししていた。

この結果、同志社の2代目総長・小崎弘道は、アメリカン・ボードからの寄付を拒否した。これに激怒したアメリカン・ボードは同志社から在日宣教師を引き上げて完全撤退した。

さらに、2代目総長・小崎弘道は同志社英学校のカリキュラムから聖書の授業を削除したことで、兵役免除の特例の条件をクリアーすることができ、同志社英学校は兵役免除の特例が認められた。

ただ、この一件で2代目総長・小崎弘道はキリスト教関係者から批判を受け、同志社の総長を辞任している。

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