実話-八重の桜-最終回のあらすじとネタバレ
2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重(山本八重)の生涯をあらすじとネタバレで紹介する史実「新島八重の桜」の京都編「実話-八重の桜-最終回のあらすじとネタバレ」です。
このページは「実話-新島八重の改宗疑惑と竹田黙雷のあらすじとネタバレ」からの続きです。
■同志社大学の設立
新島襄は、日本にキリスト教主義学校の設立を夢見て日本に帰国したが、第2次大学設立運動の最中に倒れ、志半ばに死去した。
新島襄が設立した同志社英学校は新島襄の死後、法律などの関係で、同志社専門学校を経て同志社大学となり、同志社大学は1920年(大正9年)に大学令に基づき大学として認められた。
新島襄が設立した同志社英学校が大学として認められ、新島襄の夢が実現したのは新島襄の死後、30年が経ってからであった。
■新島八重の晩年
新島八重は新島襄の死後、同志社から距離を置き、赤十字の活動に力を入れたが、自宅を同志社に寄付してからは、自宅の保存方法を巡って同志社と対立したほか、度々、借金を申し込むなどして同志社を困らせた。
その一方で、新島八重は同志社の生徒と交流をもち、生徒から「新島のおばあちゃん」として慕われ、晩年は安らかな日々を過ごした。
また、新島八重は故郷の会津とも交流を持った。新島八重は高齢にもかかわらず、1921年(大正10年)に会津を訪問している。
1928年(昭和3年)5月には反対に、福島県の会津高等女学校(現在の葵高校)の生徒が修学旅行で京都を訪れた。
このとき、新島八重が生徒を会津藩縁の黒谷西雲寺を案内したほか、会津藩の教科書「日新館童子訓」を一言一句間違えること無く暗唱してみせた。
新島八重の記憶力は、会津高等女学校の生徒も驚くほどだった。ちなみに、新島八重の幼なじみで北海道に渡った日向ユキも、晩年に会津藩時代の詳細な回想録を残しており、もの凄い記憶力だった。
新島八重(山本八重)は新島襄と結婚し、クリスチャンになったが、会津藩時代の教えを捨てていなかった。このた、新島八重は「右手に日新館童子訓、左手に聖書を持た女性」と呼ばれることがある。
■会津の汚名返上
1924年(大正13年)12月8日、貞明皇后が同志社女学校を行啓した。このとき、新島八重はこれまでの功績が認められて、貞明皇后に単独で拝謁が許され、貞明皇后から言葉を賜った。
1928年(昭和3年)9月28日、会津藩主・松平容保の孫娘・松平節子が、昭和天皇の皇弟・秩父宮雍仁親王と結婚し、秩父宮勢津子となる。
会津藩は戊辰戦争によって朝敵となったが、松平節子が皇室へ輿入れしたことにより、朝敵の汚名を返上することが出来た。
新島八重は松平節子の輿入れを喜び、「万歳、万歳、万々歳」と喜んだという。
さらに、1928年(昭和3年)11月には、新島八重は昭和天皇の即位大礼で銀杯を下賜された。
■死ぬまで世間を騒がせる新島八重
新島八重は晩年、茶道と禅に癒やしを求めた。新島八重は茶会を通じて建仁寺の竹田黙雷と知り合い、竹田黙雷の元へ通うようになった。
新島八重が仏教に帰依したとしてキリスト教業界を揺るがせたのは、1930年(昭和5年)ごろのことである。
新島八重は「ひとつの宗教に籍を置いているからといって、他の宗教のお話を聞いてはいけないということにはならないでしょう」と相手にしなかったが、死ぬ2年前でも世間を騒がせたのだ。
■新島八重が死去
新島襄は少年期に悪い麻疹に感染して以降、様々病気に悩まされるようになり、新島襄は「病魔の囚人」であった。
一方、新島八重は健康で、数度の病気はあったが、女伊達らに若松城籠城戦を戦った新島八重が病気に負けるはずも無かった。
80歳を超えても精力的に活動していた新島八重だったが、寄る年波には勝てず、1931年(昭和6年)8月8日に風邪をひきて寝込んで以降は、度々、体調を悪化させていた。
しかし、新島八重が病気からといって大人しくしているはずもなく、1932年(昭和7年)4月には米寿祝いの茶会に出席した。
新島八重は1932年(昭和7年)6月13日に行われた茶会にも出席したが、帰宅後に倒れて、翌日の1932年6月14日に自宅で激動の生涯を閉じた。新島八重は享年87歳だった。死因は死因は急性胆嚢炎だった。
新島八重の葬儀は、同志社葬として同志社の栄光館ファーチャペルで行われ、2000人が参列した。(注釈:新島襄の葬儀の参列者は4000人だった)
新島八重の墓は、若王子山にある新島襄の隣に建てられた。新島八重の墓標の「新嶋八重之墓」(原文ママ)の文字は、同志社英学校時代に新島八重のことを「鵺(ぬえ)」を批判した徳富猪一郎(徳富蘇峰)が書いた物である。
(注釈:新島八重の墓標は「新島」ではなく「新嶋」となっている。新島襄の墓標は勝海舟の書で、新島の「島」の字の横棒が1本足りない。夫婦で「島」の字が違うため、暗号が隠されているという説もある)
徳富猪一郎(徳富蘇峰)は、同志社英学校時代に新島八重と批判した急先鋒だったが、新島襄の死を切っ掛けに新島八重と和解し、以降は新島八重の良き理解者となっていた。
新島八重は結婚生活の3分の1を新島襄の介護に費やした。新島襄の死後は日本赤十字の活動も積極的に行い、日露戦争・日清戦争の際には篤志看護婦(ボランティア看護婦)として活躍し、女性の社会進出に貢献した。
新島八重の死後、徳富猪一郎(徳富蘇峰)は、新島八重を「奉仕の人だった」と評した。
■八重の桜
新島八重が死去してから78年後の2010年(平成22年)3月3日、桜守の佐野藤右衛門が、京都府庁の敷地内で1本の桜を発見した。それは、ヤマザクラとオオシマザクラの両方の特性を持つ新種の桜だった。
この桜が見つかった京都府庁は、江戸幕府末期に京都守護職上屋敷が在った場所だった。
このため、桜守の佐野藤右衛門は、京都守護職を務めた第9代会津藩主・松平容保にちなんで、この桜を「容保桜」と命名した(注釈:桜そのものは会津と縁もゆかりも無い)。
そして、佐野藤右衛門の好意により、2011年(平成23年)3月に容保桜の苗木が会津若松市へ寄贈されることになった。
容保桜の苗木の寄贈は、2011年(平成23年)3月11日の東北大震災の影響で延期となったが、2012年12月に寄贈が実現し、京都と会津を結ぶ架け橋となっている。
■新島八重と新島襄の梅
新島襄の死後、新島八重の気性の荒さが原因でお手伝いも寄りつかず、新島邸で1人で暮らした。しかし、新島邸の庭には、新島襄が植えた梅(寒梅)の花が咲いており、新島八重は1人では無かった。
新島八重は庭に咲いている梅の花を眺めることが好きだった。新島襄も生前、庭の梅の花を眺めるのが好きだった。
新島襄は、時代を先んじて生きる新島八重のことを、春先に咲く寒梅に例えて、「めずらしと、誰かみざらん、世の中の、春にさきだつ、梅の初花」と詠んだ。この梅は今も新島邸の庭で咲いている。
実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。