サキ-最終回の感想
仲間由紀恵の出演するフジテレビの悪女ドラマ「サキ(美しい隣人2)」の最終回(第11話)「悪女の最後」の感想です。
ドラマ「サキ」の最終回のあらすじとネタバレは「サキ-最終回のあらすじと結末ネタバレ」をご覧ください。
■サキ-最終回の感想
ドラマ「サキ」は、つまらなかった。ドラマ「サキ」をドラマ「美しい隣人」シリーズとして観ると、本当につまらない。
私の前作「美しい隣人」のマイヤー沙希(仲間由紀恵)に対する解釈は、ドラマ「サキ」の脚本家・渡辺千穂の解釈と大きく異なっているようだ。
ドラマ「サキ」の最終回で、新田隼人(三浦翔平)は網浜サキ(仲間由紀恵)に「もし、人の幸せ分量が、一生の幸せの量が決まってるのだとしたら、姉ちゃんだって、これからの姉ちゃんだって…」と言っている。
しかし、私はこの台詞に違和を感じた。前作「美しい隣人」のイヤー沙樹(仲間由紀恵)に対する私の解釈は、新田隼人(三浦翔平)の台詞とは全然、違うのだ。
ドラマ「美しい隣人」のマイヤー沙希(仲間由紀恵)は「幸せの総和は一定である」と考えていた。幸せの総量は常に一定で、誰かが幸せになれば、その分だけ、誰かが不幸になる。自分が不幸なのは、他人が幸せだからだ、と考えていた。
この考えが、マイヤー沙希(仲間由紀恵)の思考の根底となる「マイヤーの法則」である。誰かが幸せになった分だけ、他の誰かが不幸せになる。だから、人の幸せは、他人の不幸の上に成り立つのである。
マイヤー沙希(仲間由紀恵)にとって「幸せ」は奪い合うものである。マイヤー沙希(仲間由紀恵)が幸せになるためには、他人を不幸にしなけらばならない。
だから、ドラマ「美しい隣人」のマイヤー沙希(仲間由紀恵)は、自分が幸せになるために、隣人・矢野絵里子(檀れい)を追い詰めて不幸にしようとしていた。
そして、池で溺死した隼人の代わりに、矢野絵里子(檀れい)から息子・矢野駿(青山和也)を奪おうとした。それらは全て、マイヤー沙希(仲間由紀恵)が自分の幸せを取り戻すための動である。
しかし、新田隼人(三浦翔平)の「人の幸せ分量が、一生の幸せの量が決まってるのだとしたら、姉ちゃんだって、これからの姉ちゃんだって…」という解釈では、話が違ってくる。
一生の幸せの量が決まっているのであれば、本人だけの問題であり、他人の幸せや不幸は一切関係が無くなる。これでは幸せの奪い合いにはならないし、マイヤーの法則にもならない。
一生の幸せの量が決まっているという解釈であれば、「人の幸せは他人の不幸の上に成り立っている」という説明が出来ない。
だから、ドラマ「サキ」の最終回を観て、脚本家・渡辺千穂の網浜サキ(仲間由紀恵)の描き方に違和を感じた。
網浜サキ(仲間由紀恵)とマイヤー沙希(仲間由紀恵)の2人は同一人物という設定だったが、ドラマ「サキ」は、ただの復讐劇の様になっていたため、網浜サキがマイヤー沙希と同一人物には思えなかった。
網浜サキ(仲間由紀恵)が5人に復讐を果たす理由が些細な事でも良いが、網浜サキ(仲間由紀恵)が復讐を果たすことによって、網浜サキ(仲間由紀恵)の幸せのポジションがどのように変異するかを描くべきだと思う。
ターゲットとなった5人のうち、「人の幸せは他人の不幸の上に成り立っている」という図式が成立するのは、息子が治療に受けさせた須藤繁之(高嶋政伸)と、生まれながらに両親に恵まれた新田隼人(三浦翔平)だけだ。
残りのターゲット3人は網浜サキ(仲間由紀恵)の不幸によって利益を得ていないため、「人の幸せは、他人の不幸の上に成り立っている」という図式が成立しない。
だから、ドラマ「サキ」はただの復讐劇になってしまっている。ただの復讐劇にするのであれば、ドラマ「美しい隣人」のマイヤー沙希(仲間由紀恵)を使う必要は無いと思う。今期で一番、楽しみにしていたドラマだっただけに、期待を裏切られた感じが大きい。
ドラマ「美しい隣人」の脚本を手がけた神山由美子がドラマ「サキ」の脚本を手がけてくれていれば、と思うが、ドラマ「サキ」だけに「後悔先に立たず」である。
「ドラマ「サキ」の真犯人と網浜サキの妊娠」へ続く。
コメント欄
こんにちは、いつも楽しみに感想やネタばれ記事を拝読させていただいています。
<一生の幸せの量が決まっている>事と<他人の幸せの分量を奪って自分がその分幸せになれる>マイヤーの法則は違うのでは?の記事を読みました。
<一生の幸せの量が決まっている>人の幸せと自分の分量を比較し、不足感や羨望感、嫉妬心があれば、奪う方が安易ではないでしょうか?
兄弟でも親子でも恋人同士でも。
<自分が持てない幸せを持っている>=<私が味わえるはずだった一生の幸せの量をこいつから奪える>と解れば奪う方が容易だし、サキは自分に奪う権利があると勘違いしているので十分マイヤーの法則に通じるのではいでしょうか?
サキは<相手の決まった幸せの分量を奪う>事で<存在を認めてもらえる幸せ>を感じていたのではいかと思います。
お母さんに自分の存在を認めてもらう事が当たり前だった隼人と、実母、継母ともに存在を認めてもらえなかったサキとでは考えが大きく違います。
<幸せの分量が決まっている>なら、それに対し他人と比較して「少なすぎる!」と嫉妬して奪う権利を主張し実行するのがサキです。自分を幸せにする事をせず、奪いつくした揚句、絵里子に「可哀そうな自分を愛しているだけ」と指摘されやっと自分の法則の矛盾と他人の幸せは奪えない絶望に気がついた沙希ですから。
サキが破滅に追いやった男は全員母の危篤で遭遇した際にサキを無視しました。
母親もです。母は危篤の間際、隼人の名前を呼んで、自分を無視されました。
待ち合わせのシーンも母親の方は嬉しくなさそうな表情でしたし。
美しい隣人では、自分が息子を「隼人」と呼ぶ事で自身と母を重ねました。(自業自得で隼人を失いましたが。)
サキは正反対の事をして、最後までサキの存在強烈に植え付け、自分の事を忘れさせまいとしました。人は嫌われるより無視される事の方が精神的に傷つきますから。だから、<一定の幸せの分量>を奪う事と<マイヤーの法則>は同じだと思います。
絵里子は夢に出てきた沙希すらDVDを焼き捨てる事で記憶から消し無視する事に決めたんですね。あれだけ不気味な何を言おうとしたか不明なラストも、もう視聴者はうろ覚えで殆ど忘れてますし。無視されていくのでしょう。
長文失礼しました。
コメントありがとうございます。なるほど、沙希ファンさんの解釈は、私の解釈とは少し違いますが、非常に参考になりました。「人は嫌われるより、無視される事の方が傷つく」という点は、素晴らしい解釈だと思います。
ドラマ「サキ」に続編がなるになら、「人は嫌われるより、無視される方が嫌われる」をテーマにすると、面白いドラマができそうな気がします。
サキも始めは管理人様の言うマイヤーの法則で、動いてたと思いますが、
最後は、隼人の言葉を信じてみようと思ったのでは?
隣人の方では、子供も失い沙希の中で、やはりマイヤーの法則ではないと幸せになれないと思って狂気に走ったのではないでしょうか?
■サキ面白かったさんへ
そうですね。ドラマ「美しい隣人」の時は「マイヤーの法則」では幸せになれないと気づき、崩壊していましたね。
ドラマ「サキ」でも、網浜サキ(仲間由紀恵)は新田隼人(三浦翔平)の告白を聞いて、新田隼人(三浦翔平)を殺すのを止めたので、網浜サキ(仲間由紀恵)の中で何らかの矛盾や破綻が乗じたのだと思います。