山本八重が川崎尚之助と結婚した理由、離婚した理由

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・山本八重(新島八重)の実話を紹介する「実話-新島八重の桜」の番外編「実話-山本八重が川崎尚之助と結婚した理由、離婚した理由」です。

■山本八重が川崎尚之助と結婚した理由
山本八重が19歳のとき(推定1865年)、山本家に寄宿していた川崎尚之助(かわさき・しょうのすけ)と結婚した。

山本八重が川崎尚之助と結婚した理由については、「会津藩士ではなかった川崎尚之助を会津藩士にさせるため(川崎尚之助を会津に留め置くため)、山本覚馬が山本八重と結婚させた」という解釈(政略結婚説)が通説となっている。

1864年に京都で禁門の変(蛤御門の変)が起きた。このとき、山本覚馬の活躍により、長州藩を撃退することができたため、洋式銃を受け入れなかった会津藩で洋式銃が認められ始めた。

会津藩で洋式銃が扱えるのは山本覚馬か川崎尚之助くらいだったため、山本覚馬は会津に居る川崎尚之助を京都へ呼び寄せようとしたのだが、川崎尚之助が会津藩士ではなかったため、川崎尚之助を京都へ呼び寄せる事は出来なかった。

そこで、川崎尚之助を会津藩士に登用させるため、山本覚馬が山本八重の川崎尚之助の結婚を計画したのではないか、と言われている。

山本八重は晩年に会津時代のことを色々と話しているのだが、川崎尚之助の事について語った記録が無いため、山本八重が川崎尚之助との結婚をどのように思っていたのかは分からない。

■山本八重が川崎尚之助と離婚した理由
山本八重が川崎尚之助と結婚した3年後(1868年)に戊辰戦争(会津戦争)が勃発し、若松城籠城戦に突入する。

通説では、「山本八重は戊申戦争中に川崎尚之助と離婚した」ということになっている。しかし、山本八重が川崎尚之助と離婚したという記録は残っていない。

会津藩士の離婚は会津藩に届け出なければならないため、離婚していれば、会津藩の記録に残るはずである。また、戊申戦争後の記録に新島八重のことを「川崎尚之助妻」と表記していることから、2人は離婚していない事は明らかである。

その後、山本八重は京都で2番目の夫となる新島襄と結婚することになるが、この時には既に川崎尚之助は死んでいるので重婚にはならない。

したがって、現時点(20213年3月)では、「山本八重は川崎尚之助と離婚した」ではなく、「山本八重は川崎尚之助と死別した」というのが正しい。

ただ、不思議なことに、川崎尚之助の死亡時の戸籍には、山本八重の名前は無かった。そこには、川崎尚之助の山本八重への思いが隠されていたという。

少し長くなるが、川崎尚之助の生涯をあらすじで紹介しておく。

■川崎尚之助の生涯
川崎尚之助は「出石藩医の子」という記録しかない。出石藩(兵庫県)の藩医にそれらしき人物が居ないため、通説では「出石藩の町医者の子」とされているが、川崎尚之助の素性は分からない。

会津藩士・山本覚馬が2度目の江戸遊学に出たさい、大木忠益の塾で学んだ。このとき、川崎尚之助が大木忠益の塾に在席しており、山本覚馬は川崎尚之助と知り合った。川崎尚之助は蘭学や舎密(理化学)を学んでおり、非常に優秀な男だったという。

その後、山本覚馬は2度目の江戸遊学を終えて会津に戻ると、1856年に会津藩校「日新館」に蘭学所を開設した。そこで、蘭学所の教授として川崎尚之助を招いた。

そして、山本覚馬が「樋口うら(山本うら)」と結婚した1857年に、川崎尚之助が会津へやってきた。川崎尚之助は給料の受け取りを辞退し、山本家に寄宿しながら、蘭学所の講師を務めることになる。

こうして、山本八重は川崎尚之助と出会うが、2人に関する資料は何も残っていない。そして、上でも紹介したように、山本八重は1865年に川崎尚之助と結婚した。

川崎尚之助が会津藩士に登用された時期は不明だが、山本八重との結婚によって会津藩士に登用された、というのが通説になっている。

結婚から3年後の1868年6月に戊辰戦争が始まり、1868年10月には新政府軍が会津領内に雪崩れ込んだ。

川崎尚之助は会津藩士として出陣。戸ノ口原で敢死隊(かんしたい)の隊長・小原信之助が戦死したため、川崎尚之助が敢死隊の隊長に就任する。

しかし、会津軍は戸ノ口原で新政府軍を止めることが出来ずに敗走し、若松城籠城戦に突入する。敗走した川崎尚之助も無事に若松城へたどり着き、敢死隊を率いて砲台を守備した。

山本八重も若松城籠城戦でスペンサー銃で新政府軍を狙撃したり、夜襲に加わり、新政府軍を襲撃した。

しかし、1ヶ月にわたる籠城戦の末、食糧補給路を断たれ、完全に孤立した会津藩は新政府軍に降伏してしまう。

会津藩の降伏後、川崎尚之助は他の会津藩士と同様に東京で謹慎生活を送った。そして、謹慎が解けると、会津藩が青森県東部に立藩した斗南藩へと移住した。

一方、会津藩の老人や女は自由の身となっており、山本八重は会津藩の降伏後、会津で過ごした。その後、斗南藩が立藩されたが、山本八重は斗南藩へは行かず、米沢藩士・内藤新一郎の元へ出稼ぎへ出た。

やがて、死んだと伝わっていた兄の山本覚馬が京都で京都府の顧問をしている事が判明したため、山本八重は兄・山本覚馬を頼って京都へ移住し、川崎尚之助とは完全に別の道を歩んだ。

さて、会津藩は青森県東部に斗南藩を立藩し、多くの会津藩士が斗南藩へ移住したが、斗南藩は3万石(実質7000石)という不毛の地で、斗南藩に移住した多くの会津藩士が飢えに苦しんだ。

斗南藩へ入った川崎尚之助は、商取引によって利益を上げる仕事に従事した。農作物の採れない斗南藩にとって、商取引は重要な収入源だった。

商取引のために函館へと渡った川崎尚之は、斗南藩士を自称する米座省三と知り合い、米座省三の仲介で、斗南藩が栽培中の大豆を担保に広東米を購入する先物取引を行った。

しかし、米座省三が広東米の手形を担保に金を借りて逃走したため、川崎尚之助は取引相手に大きな損害を与えてしまい、取引相手から訴えられた。

斗南藩(会津藩)はこの広東米の取引について、「取引は藩命ではない」と一切の関与を否定したため、川崎尚之助は全ての責任を背負った。

(注釈:広東米の取引の経緯は複雑なので省略します。詳しく知りたい方は、「山本八重と川崎尚之助の再会」をご覧ください。)

裁判は東京で行われることとなり、川崎尚之助は東京の身元引受人の元で食うや食わずの生活を過ごし、1875年(明治8年)3月20日に東京医学校病院で死亡した。死因は慢性肺炎だった。

裁判は終了していなかったが、川崎尚之助の戸籍には配偶者(山本八重)が記載されていなかったため、相続人無で川崎尚之助の死亡により、裁判は終了となった。

1871年(明治3年)に戸籍が制定されたが、川崎尚之助は裁判で負ければ莫大な負債を背負うことになるため、戸籍にを作成するとき、山本八重の名前を書かなかったのではないか、と言われている。

新島八重(山本八重)が2番目の夫・新島襄と結婚した理由については、「新島八重(山本八重)が新島襄と結婚した理由」をご覧ください。

山本八重(新島八重)の生涯を実話で紹介する「実話-新島八重の桜」は「実話-新島八重の桜」をご覧ください。