黒田職隆と黒田官兵衛の誕生-黒田家の由来

黒田官兵衛の生涯を描く「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「黒田職隆と黒田官兵衛の誕生」です。

目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

黒田官兵衛の誕生

天文15年11月29日(1546年12月22日)辰の刻(午前8時)、姫路城の城主・小寺職隆(黒田職隆)に子供「万吉」が生まれた。この万吉が後の黒田官兵衛である。

黒田官兵衛が生まれたとき、姫路城は雪で覆われていた。これは、英雄が生まれる吉兆が出ていたのだという。

父・小寺職隆(黒田職隆)は播磨(兵庫県)にある御着城(ごちゃくじょう)の城主・小寺政職に仕えており、姫路城の城主を任されていた。母親は明石城主・明石宗和(明石正風)の娘・明石岩(岩姫)である。

このとき、父・黒田職隆は、小寺政職から「小寺」姓を拝領し、小寺家の一門になっているため、「小寺職隆」を名乗っていた。「職隆」の「職」も小寺政職より、一字を拝領したものである。

なお、現在は黒田官兵衛を「くろだ・かんべえ」と発音するが、当時の発音では「くろだ・くわんべえ」または「くろだ・くゎんぴょうえ」と発音したとされる。

黒田勘兵衛の諱(本名)は「孝高」である。幼名は「万吉」と言い、成人して「黒田勘兵衛」を名乗り、その後に「黒田如水」と名乗った。

また、黒田官兵衛はキリスト教の洗礼を受けており、クリスチャンネームを「ドン・シメオン」と言い、「黒田シメオン」「小寺官兵衛シメオン」などと表記する場合もある。

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黒田勘兵衛の家系

黒田勘兵衛の黒田家は、元を正せば、宇多天皇の末裔とされる名家・源氏で、源成頼の時代に近江国蒲生郡佐々木(現滋賀県近江八幡市)に居を構えたことから、佐々木の姓を名乗るようになる。

やがて、佐々木家は京極家と六角家に分家する。その後、京極家の京極宗清(きょうごく・むねきよ)が近江の黒田村に居を構えたことから、京極家から分家し、黒田姓を名乗るようになった。

黒田家は京極家に仕えていたが、1511年(室町時代)に黒田官兵衛の曾祖父・黒田高政が手柄を立てるために「船岡山合戦」で抜け駆けして、軍令に背いたため、将軍・足利義稙の怒りを買った。

佐々木氏の謝罪によって曾祖父・黒田高政は許されたが、近江から追放となったため、曾祖父・黒田高政は同族を頼って、備前の福岡村(岡山県瀬戸内市長船町福岡)へと移り住んで、福岡村に土着した。

後に黒田家が治める筑前(福岡県西部)が福岡県という名称になったのは、黒田家が備前(岡山県)の福岡村に土着したことに由来する。

1521年(大永元)、播磨・備前・美作の守護大名・赤松家で謀反があり、赤松家の重臣で備前の守護代を務めていた浦上宗村が播磨守護職の赤松義村を討ち、播磨は内乱へと発展した。

大永3年(1523年)に曾祖父・黒田高政は備前(岡山県)の福岡村で病死し、次男の黒田重隆が家督を継いだ。この黒田重隆が黒田官兵衛の祖父である。

黒田高政の死後、備前の福岡村は浦上宗村に侵略されたため、黒田高政の子・黒田重隆は福岡村を出て播磨(兵庫県)へと移り住んだ。

やがて、黒田重隆は「黒田入道(黒田宗卜)」を名乗って播磨の姫路へと移り住み、姫路で有力な豪族にまで成長した。

なお、黒田家には、秘伝の目薬「玲珠膏(しゅれいこう)」の調合方法が伝わっている。このため、祖父・黒田重隆は玲珠膏の販売によって財を成したとされているが、玲珠膏を販売して財を成す話は創作である。

黒田重隆が小寺家に属す

黒田官兵衛の祖父・黒田重隆が姫路で有力な豪族となり、一帯を支配するようになったころ、全国には下克上の嵐が吹き荒れ、全国各地で争いが始まっていた。

このころの播磨は、播磨守護大名の赤松家が衰退して大小の豪族が割拠しており、姫路周辺では、赤松家の一族で、御着城(兵庫県姫路市御国野町)を本拠地とする大名・小寺政職(こでら・まさもと)が勢力を誇っていた。

天文13年(1544年)、姫路の豪族に成長していた黒田重隆は、乱世を生き残るため、御着城の城主・小寺政職(こでら・まさもと)に仕えることにした。

黒田重隆は小寺家で頭角を現し、小寺政職は黒田重隆を重用し、黒田重隆の子・黒田職隆もかわいがった。

黒田職隆は非常に優秀だったので、小寺政職は黒田職隆を家老に付かせようとしたが、新参者を家老にしては譜代の臣からの反発するため、小寺政職は黒田職隆を一門に迎え入れ、家老にしようと考えた。

そこで、天文14年(1545年)、小寺政職は明石城主・明石宗和(明石正風)の娘・明石岩(岩姫)を養女とし、父・黒田職隆と結婚させると、父・黒田職隆に「小寺」の姓を与えて一門に加え、「職」の一字も与えた。

(注釈:これ以降、黒田職隆は「小寺職隆」を名乗るようになるが、話が複雑に成りすぎるため、「黒田職隆」で統一する。)

そして、譜代の家臣が小寺家一門になった黒田職隆を尊敬するようになると、小寺政職は黒田職隆を筆頭家老に任じ、姫路城の城主に抜擢したのである。

現在の国宝・姫路城は、江戸時代に池田輝政が改修したもので、黒田家時代の姫路城の規模は分からない。元々の姫路城は居館ていどの規模で、父・黒田職隆が城と呼べる程度の規模に改修したとされる。

こうして、黒田職隆に姫路城の城主となった翌年の天文15年11月29日(1546年12月22日)、姫路城で幼名「万吉」こと黒田勘兵衛が誕生したのである。

黒田官兵衛の初陣と元服」へ続く。

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