黒田官兵衛の登用と初陣-織田信長の野望
黒田官兵衛の生涯を描く「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「黒田官兵衛の登用と初陣」です。
このこのページは「黒田職隆と黒田官兵衛の誕生-黒田家の由来」からの続きです。
「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」の目次は「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
黒田勘兵衛と母の死
黒田官兵衛が生まれた翌年(1547年)、小寺家の家臣・八代六郎左衛門に子供・吉田六郎太夫が生まれた。
黒田官兵衛の母・明石岩(岩姫)は乳の出が悪かったため、黒田官兵衛は八代六郎左衛門の妻の乳首を吸わせてもらい、吉田六郎太夫と競うように乳首を吸って大きくなった。
黒田官兵衛と競いあって乳首を吸って育った吉田六郎太夫は、後に黒田家の家臣を代表する「黒田24騎」の1人となる。
さて、黒田官兵衛が7歳になると、浄土宗の和尚・円満から勉学を学ぶようになるが、黒田官兵衛が学問よりも武芸を好み、常に弓を射たり、馬に乗ったりして、子供を集めては戦争ごっこをして遊んでばかりであった。
永禄2年(1559年)12月28日、黒田官兵衛が14歳の時に母親・明石岩(岩姫)が病死する。黒田官兵衛は母親の死を切っ掛けに、引きこもるようになり、古今和歌集などを読みふけり、自身も和歌や俳句を詠むようになる。
母親・明石岩(岩姫)は和歌や俳句に堪能だったため、黒田官兵衛は和歌や俳句を通じて、死んだ母親の事を思い出していたのだという。
しかし、その後、黒田官兵衛の教育係を務める和尚・円満が黒田官兵衛に「文学も大切ですが、亡き母がそのようなことを望んでいましょうか。今は戦乱の世。強くなければ、敵に乗ぜられてしまいます」と武将としての心構えを説くと、黒田勘兵衛は兵学に励むようになった。
なお、母・明石岩(岩姫)が産んだ子供は、嫡子の黒田官兵衛、次男の黒田小一郎(黒田兵庫助)、長女、次女の計4人である。その後に生まれた黒田家の子供は、黒田官兵衛とは異母兄弟である。
さて、永禄3年(1560年)5月19日、黒田官兵衛が15歳のとき、尾張(愛知県)の織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、天下に名を馳せた。
ここから、織田信長の野望が始まるが、黒田官兵衛は初陣も果たしていない。
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黒田官兵衛の登用と初陣
永禄4年(1561年)、父・黒田職隆が新館を建てたので、御着城の城主・小寺政職が新館を見学するため、鷹狩りの帰りに姫路城へと立ち寄った。
黒田勘兵衛は父・黒田職隆の命令で小寺政職の配膳係を務めたところ、小寺政職は黒田官兵衛の機敏な動きを気に入り、黒田勘兵衛を18石で近習に取り立て、御着城へと連れ帰った。
黒田官兵衛は母・明石岩(岩姫)が死んだ影響で長らく引きこもりになっていたので、御着城の城主・小寺政職に会うのは、この時が初めてだった。
永禄5年(1562年)、黒田官兵衛は17歳で父・黒田職隆に付き添い、近くの豪族を討伐し、初陣を果たした。
また、初陣と同じころ、黒田勘兵衛は元服して、名前を幼名「万吉」から、「勘兵衛」へと改めた。このとき、黒田官兵衛は小寺政職から「小寺」の姓を賜り、小寺官兵衛と改名した。
(注釈:ここから、黒田官兵衛は「小寺官兵衛」を名乗るようになるので、ここからは「小寺官兵衛」で表記する。)
初陣と元服を果たした小寺官兵衛(黒田官兵衛)は度々、周辺の反乱や敵軍の侵略を討伐し、小寺政職から信頼を置かれる存在となり、小寺家に小寺官兵衛ありと言われるようになった。
「竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り」へと続く。
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