小寺官兵衛と青山の戦い
2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「小寺官兵衛と青山の戦い(青山合戦)」です。
このページは「小寺官兵衛が櫛橋光と結婚」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」です。
■播磨の状況
小寺官兵衛(黒田勘兵衛)は長男・黒田長政も生まれて公私ともに順風満帆だったが、播磨にある御着城の城主・小寺政職は小大名だったため、天下取りには1歩も2歩も出遅れていた。
既に全国で下克上の嵐が吹き乱れており、長男・黒田長政が生まれた永禄11年(1568年)には、足利義昭を擁した尾張(愛知県)の織田信長が上洛を果たし、足利義昭が15代征夷大将軍に就いていた。
播磨(兵庫県)の西には中国地方を制した毛利輝元が居り、播磨の東には15代将軍・足利義昭を擁して天下統一を狙う織田信長が居た。
そして、播磨の南には、14代将軍・足利義栄を庇護し、四国から天下を狙う阿波(徳島県)の三好長治が居た。
14代将軍・足利義栄は阿波の出身で、三好家の後押しによって14代将軍に就任しており、織田信長に排除された後、阿波の三好家を頼っていた。
織田信長は上洛を果たしたといえど、越後(新潟県)から天下を狙う上杉謙信、織田信長の背後を突こうとする甲斐(山梨県)の武田信玄などが居り、天下は治まっていなかった。
■山脇六郎左衛門の暗殺
播磨(兵庫県)は守護大名・赤松家が治めていたが、永正18年(1521年)に備前の守護代・浦上宗村が下克上を起こして播磨守護職の赤松義村を討ち取って以降、赤松家は求心力を失い、播磨は内乱状態にあった。
播磨の守護大名・赤松家は求心力を失うと、赤松家は本家筋の置塩城(兵庫県姫路市)の城主・赤松義祐と、分家筋の龍野城(兵庫県たつの市)の城主・赤松政秀とに別れ、播磨守護職の覇権を争った。
黒田官兵衛が仕えた御着城の城主・小寺政職は、播磨の守護大名・赤松家の一族で、本家筋の置塩城の城主・赤松義祐に属しており、分家筋の龍野城の城主・赤松政秀と対立していた。
このようなか、永禄11年(1568年)、15代将軍・足利義昭が織田信長の勢力を背景に上洛を果し、全国の諸大名に上洛を要請したのである。
御着城の城主・小寺政職の元にも15代将軍・足利義昭の上洛要請が届き、小寺政職は対応に迫られた。城主・小寺政職は定評を開いて家臣に意見を求めたが、意見は割れて、結論は出なかった。
一方、東播磨で最大の勢力を誇る三木城(兵庫県三木市)の城主・別所長治は、隣接する摂津(大阪府)の三好家に対抗するため、織田信長と親交を深めていた。
他方、西播磨で勢力を誇る龍野城(兵庫県たつの市)の城主・赤松政秀は、織田信長が擁する足利義昭に取り入り、播磨守護職の地位を狙っていた。
播磨ではいち早く、別所長治と赤松政秀の2人が織田信長と親交を深めたため、赤松政秀と対立関係にあった小寺政職は、織田信長派の家老・山脇六郎左衛門を誅殺して、15代将軍・足利義昭の上洛要請を無視した。
このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が小寺政職の命令を受け、家老・山脇六郎左衛門を誅殺している。
黒田官兵衛が生涯で誅殺したのは2人だけで、その1人目が小寺家の家老・山脇六郎左衛門である。もう1人は、淡路島にある由良城の城主・安宅河内守である。
(注釈:黒田官兵衛が播磨の中でいち早く織田信長に属したというのは、後世の創作である。別所長治や赤松政秀が先に織田信長に属しており、黒田官兵衛は織田派の家老・山脇六郎左衛門の暗殺して織田信長に属してない。)
■赤松政秀と赤松義祐の対立
播磨では、いち早く織田信長に属した龍野城(兵庫県たつの市)の城主・赤松政秀は、15代将軍・足利義昭に取り入り、播磨守護大名の地位を狙うため、娘を足利義昭の侍女として仕えさせることにした。
対立する置塩城(兵庫県姫路市)の赤松義祐は、これを阻止するため、御着城の小寺政職に、赤松政秀の娘の拉致を命じた。さらに、備前(岡山県)の大名・浦上宗景にも、龍野城への攻撃を要請した。
結局、置塩城の赤松義祐の娘の拉致は失敗したが、置塩城の赤松義祐は、その後も備前(岡山県)の浦上宗景と手を組み、龍野城の赤松政秀を挟み撃ちにした。
窮地に陥った龍野城の城主・赤松政秀は、15代将軍・足利義昭に助けを求めた。
要請を受けた15代将軍・足利義昭は、赤松義祐の援軍として織田信長の軍を差し向け、ついに織田信長が播磨へ侵攻を開始する。
東播磨で最大の勢力を誇る三木城(兵庫県三木市)の城主・別所長治は、織田信長に属しているため、織田信長に味方して、西播磨へと侵攻する。
織田信長の援軍により、西播磨の形勢が逆転し、御着城の城主・小寺政職は、西播磨の赤松政秀と東播磨の別所安治に挟み撃ちにされてしまった。
■小寺官兵衛と青山の戦い
永禄12年(1569年)8月、織田信長の播磨侵攻によって形勢を逆転した龍野城(兵庫県たつの市)の赤松政秀は3000の軍勢を率いて姫路城へと進軍した。
姫路城に居る兵力はわずか300人だった。しかも、御着城の小寺政職は三木城の別所安治と織田信長の侵攻を受けて、次々と枝城を攻め落とされており、姫路城からの援軍は期待できなかった。
当時の姫路城は、現在の国宝・姫路城のように強固な城ではなく、姫山に築かれた小規模な山城で、3000の兵で攻められれば、落城は目に見えていた。
そこで、姫路城の城主・小寺官兵衛(黒田勘兵衛)は青山に300人の伏兵を置き、進軍してきた赤松政秀の軍に奇襲攻撃をかけた(青山の戦い)。
龍野城・赤松政秀の軍は、小寺官兵衛の奇襲攻撃を受けて混乱に陥って敗走してしまう。小寺官兵衛は300人の手勢で3000人の赤松軍を撃退することに成功してのである。
このとき、小寺官兵衛の家臣・栗山善助が初陣を果たし、芝原弥十郎と桑原左衛門の2人を討取った。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「母里小兵衛と土器山の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。