軍師・黒田官兵衛-母里小兵衛と土器山の戦い
2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「母里小兵衛と土器山の戦い」です。
このページは「小寺官兵衛と青山の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」です。
■黒田勘兵衛と土器山の戦い
永禄12年(1569年)8月、「青山の戦い」で大敗した龍野城の赤松政秀は、小丸山に陣を構えた。
一方、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、英賀城(兵庫県姫路市)の城主・三木通秋の援軍を受け、夢前川を隔てた土器山に布陣して、赤松政秀の軍に相対した。
その後、赤松政秀の軍勢が奇襲攻撃をかけてきた。姫路城の守備をしていた父・黒田職隆は、小寺勘兵衛の危機を知ると、家臣の井手勘左衛門・黒田兵庫助・母里小兵衛らに出撃を命じた。
死を覚悟した母里小兵衛は、黒田職隆に「私はこの戦で死ぬでしょう。もし、私が死ねば、我妻をめとり、息子(母里雅楽と母里武兵衛)の事をお願いしたい」と遺言して、土器山へと馳せた。
小寺官兵衛は井手勘左衛門友氏・母里小兵衛・母里武兵衛の援軍を受けて兵を立て直し、井手勘左衛門友氏・母里小兵衛・母里武兵衛の活躍によって赤松政秀の軍勢を追い返した。
しかし、この激戦で井手勘左衛門友氏と母里小兵衛は討死し、母里武兵衛は全身7カ所に傷を負った。
■小寺官兵衛の反撃(土器山の戦い)
赤松政秀の奇襲攻撃により、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の軍は大打撃を受けていたが、小寺勘兵衛は「敵は大勝利で油断している。まさか夜襲してくるとは思うまい」と言い、奇襲攻撃を提案した。
小寺官兵衛は「負傷していても出陣せよ」と7度に渡り督促したため、全身7カ所に傷を負った家臣・母里武兵衛が「これほどの傷を負った者に出撃しろとは、死ねと言うことか」と激怒したが、小寺官兵衛は「おそらくそうなるであろう」と答えた。
その日の夜、小寺勘兵衛が先鋒隊を努めて、小丸山に布陣した赤松政秀を襲撃する。負傷していた母里武兵衛は真っ先に敵陣へと打ち込み、7本の槍で貫かれて戦死した。
小寺官兵衛の読み通り、夜襲の勝利に油断していた赤松政秀は防備を怠っていた。多勢に無勢で激戦ととなるが、激戦の末、赤松政秀は総崩れとなって龍野城へと敗走した。
■土器山の戦いの戦後
土器山の戦いは壮絶な戦いで、母里一族24人が死亡した。父・黒田職隆は戦死した母里小兵衛の遺言を守り、母里小兵衛の妻と結婚し、後に1男1女を儲けた。
母里小兵衛の息子・母里武兵衛は、小寺官兵衛(黒田官兵衛)と共に出陣し、真っ先に敵陣に切り込んだが、7本の槍で突かれ、壮絶な死を果たした。
母里小兵衛の息子・母里雅楽は、母里一族の死を悼み、京都へと移り住んだ(後に黒田家に仕える)。
母里家が滅ぶことを危惧した小寺官兵衛は、家臣・曽我一信の息子・曽我太兵衛に母方(母親)の母里姓を名乗らせ、母里太兵衛と改名させた。
この母里太兵衛が、後に黒田家の家臣を代表する「黒田24騎」の1人で、「黒田節」として歌われることになる。
[注釈:母里太兵衛(母里友信)のあらすじとネタバレについては「母里太兵衛(母里友信)の生涯」をご覧ください。]
さて、黒田勘兵衛は、この「青山の戦い」「土器山の戦い」での大勝利により、世間に名前を轟かせることになるが、既に織田信長・武田信玄・上杉謙信・毛利輝元などが台頭しており、天下取りには1歩も2歩も遅れていたのであった。
■黒田官兵衛の野望
このころ、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は天下の情勢を見抜き、日本を統一するためには政治の中心である京都を押さえ、天皇家の威光を借りなければならないことを悟った。
しかし、小寺官兵衛は小寺家の一家臣に過ぎないので、天皇家に接近するすべはなかった。
ただ、母親の父・明石正風が近衛家で歌道の師範をしていたため、この縁を頼り、近衛家に接近し、京都の動向を探った。
もし、京都に英雄が現れれば、小寺官兵衛はその英雄に属し、天下の動乱を収めよう、と考えるようになっていた。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「小寺政職が織田信長に属したあらすじとネタバレ」へ続く。
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とても感動しました